英語とカルチャー・ショック

カムカム小父さんこと、平川唯一さんのラジオ英会話をはじめて聞いたのは、終戦の年の翌年、わたしが旧制中学五年生のときである。ラジオから軽快なメロディーに乗って美しい英語の歌声が流れ出すと、夢中になってラジオにかじりついたものである。これが英語であると思いこんでいた既成概念は、平川さんの英語で見事にうち破られてしまった。それが最初に体験したカルチャー・ショックであった。

昭和三〇年頃になると、リール式のテープレコーダが市場に出回り始め、勤務先の学校にも二台入った。新しいテープレコーダは、引っ張りだこだった。そんな頃のある日、宿直になったわたしは備品係の先生に頼んで一台貸してもらい、宿直室で恐るおそるテキストの英語を吹き込んでみた。再生してみてわが耳を疑った。テープから流れた声は、日ごろ聞き慣れていた自分の声とはまったく違っていた。さらに驚いたことに、英語の発音ときたら手本にしていたカムカム小父さんのそれとは似ても似つかぬものであった。落胆は大きかった。それが、自分自身の声から受けた第二のカルチャー・ショックであった。

昭和50年代に入ったある年、一冊の書物との出逢いがあった。私塾で学童たちに英語を教えていた一主婦、中津燎子さんが著した「何で英語やるの」である。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したこの名著を読んで、目から鱗が落ちる思いをした。英語学や音声学の専門家たちが教えてくれなかった音作りの秘訣を、体験から得た洞察力で見事に手ほどきしてくれていたからである。

中津式発声法を学んだわたしは、そのころすでにカセット式になっていたテープレコーダを購入、録音した自分の声を外人の声と照合、矯正することに熱中した。その甲斐あってか、それまで心の中にくすぶっていた発音に対する劣等感は、次第に吹っ切れた。以前の授業では、外人吹き込みのテープばかり使っていたが、その頃にはリーダーの音読はすべて自前の肉声でやるようになっていた。

とはいっても、わたしにはいまだに持ちつづけている悩みがあった。子音はできても母音の発音が今ひとつうまくできないことである。これは、すべての日本人に共通する悩みでもあった。五種類しかない母音に慣れた日本人が、10種類もある英語の母音を発音するのはどだい無理な話である。それはもう、日本人の宿命と諦めるしかないと思っていた。

ところが、最近、これがわたしの偏見であることを知った。去年(平成十九年)の暮れ、エチオピアから一年ぶりに帰ってきた孫たちが口にする英語を聞いて、妻が言った。

「あなた、大樹(小6)や瑞香(小2)の英語、聞いた? 外人並よ。」

「まさかー」と返しながら、試しに手許にあった英語の絵本を読ませてみて驚いた。妻の言うことは本当だった。英語の発音は、たしかに母音といい、イントネーションといい、日本人訛りの英語ではなかった。発音にかぎれば、わたしが何十年もかけて到達したレベルより、かの地のインターナショナル・スクールで一年かけて学んだ彼らのレベルのほうが上であったのだ。それはわたしにとって、第三の、しかし嬉しいカルチャー・ショックであった。

若いころ受けた二度のカルチャー・ショックから、わたしはそれぞれ技能向上に役立つ大きな刺激を受けてきた。しかし三度目のそれからは、もう自己の能力に資するようなものは望むべくもない。今はただ爺バカよろしく、ひたすら孫たちの成長を楽しみにしている昨今である。(平成20年5月)


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