《海外旅行随想記(1)》

 

 初めて海を渡る  

 

教職に就いてから長い間、わたしには一つのコンプレックスがあった。それは英語教師でありながら、英語の故里に足を踏み入れたことがないことだった。教室で教える英語や英米文化のほとんどは、活字か映像を通して得られた、いわばセカンド・ハンドの情報にすぎなかった。

生きた英語に接したい―、英米の文化や文明をじかに目にしたいー、そんな思いが心の奥底に滓のようによどみ、ことあるごとに吹き出すのであった。

教室で教科書を開く。するとそこには、英米の風物や世界の遺産が美しく掲げられてある。だが悲しいかな、実物を見ていない者にはそれらの説明はお座なりにならざるをえないし、ましてや感動を伝えるなんてことはそもそも無理である。写真を見るたびに、歯痒い思いをしたものである。

 そんななか、昭和五十一年の夏休み、同じ英語科のMさんとOさんが教職員互助会主催の海外研修旅行に参加するという話を聞き、わたしは即座に彼らと行動を共にすることを決意した。日通主催のヨーロッパ六カ国を巡る「スペシャル二十二日間の旅」である。

ちょうどその頃、日本経済はバブルが始まる矢先であったが、まだ教員の給与は安かったし、一般庶民の間でも海外旅行は珍しい時代であった。円安ドル高で、為替レートは一ドル三百円もしていた。

おまけに、わが身は自宅建築から三年足らずの借金生活のさなかである。旅行費用の五十万円は大金であった。実情を知るわたしは、なかなか切り出せなかった。

それでも、勇を鼓してと言いたいが、実はおずおずの態で申し出たわたしに

 「勉強のためでしょ。行ってらっしゃい」

と、妻は気前よく承諾してくれた。わが家にも山内一豊の妻がいたんだー、と言えばいささか浪花節めく。だがそれは、平素、亭主の小遣いにもうるさい倹約家の妻が、いざというときに見せた物惜しみしない大らかさであった。お陰で、わたしは感謝の旅立ちとなったのである。

出発は、夏休みに入ってしばらくした七月三十一日、羽田空港からであった。妻は子供二人を連れて、見送りに来た。別れた妻たちはその足で、横浜にいる義弟の家に厄介になり、そこで数日横浜見物をしたという。

 午後から夕方にかけて、現地のホテルで結団式と説明会があった。それが終わって搭乗のエア・フランス機が離陸したのは、夜もかなり更けてからであった。機はアンカレッジとドゴール空港を経由、翌八月一日の早朝、イギリスの上空に入った。

眼下には、初めて目にするイギリス平野が、美しい緑の絨緞となって地平線にまで広がっていた。眺めながら、わたしは

「ヨーロッパには雑草がない」

と言った昭和の哲学者和辻哲郎の言葉を想い出していた。

しばらくすると、平野は街並みに変わりはじめ、やがて大都会に変貌していった。その頃になると、わたしの感動は頂点に達した。思わず心の中で、

「翼よ! あれがロンドンの街だ!」

と、叫んだ。初めて大西洋横断飛行を行ったリンドバーグの「翼よ! あれが巴里の灯だ」という言葉に、たぎる思いを重ねあわせていたのだ。

現地時間で午前八時過ぎ、機はロンドン・ヒースロ―空港に降りた。時差を加えれば十九時間という長い搭乗時間になるが、それも期待に胸膨らます旅行者にとっては短い一夜にすぎなかった。

 

さて、これがわたしの海外旅行の幕開けであった。その後、わたしは何度も海を渡ることになるが、いまだに脳裏に強く刻まれているのは、初めてのヨーロッパ旅行で見聞した出来事の数々である。

いま、その頃綴った日記や手記、写した写真や購入した資料の類いを見ていると、当時の感動や驚きがまざまざと蘇ってくる。それらの出来事を想い出すままに、そしてその後にも積み重ねた旅行経験の幾つかを、これから数回に分けて綴ることにしようと思う。題して「海外旅行随想記」である。

                          (平成二十五年二月作品)

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