《わが人生の歩み(25)》
話し方を学ぶ
S高校では、それまで図書館係りを二年、担任を三年務めたあと、わたしは新たに生活指導部を任されることになった。昭和五十二年のことである。
しかし、その部を引き受けるに際して、わたしには悩みがひとつあった。それは、自分の話し下手という性質である。
生来、引っ込み思案のわたしは、人前で話すことが苦手だった。寡黙な父親に似ているのだろうか、家ではものをあまりしゃべらなかったので、男たちの口数の少ない分、実家の母親にせよ、妻にせよ、女たちはいっそうしゃべることに情熱を燃やすようであった。わたしはもっぱら、聞き役に徹するのが常だった。
「あなたは話し下手というけれど、不思議ねえ。学校の先生は話すのに慣れているはずでしょ」
と、妻はいつも口癖のように言う。
妻にかぎらず人はよく、教師はものをしゃべるのが商売だから、話はうまいはずだと思い込んでいるようである。しかし、それは国語や社会科の教師にはいえるかもしれないが、英語の教師はちがうのだ。
国語や社会科の教師は、教科書の解説にせよ、自分の意見の披瀝にせよ、とにかく一つのテーマにもとづいて話すので、話のまとめ方には慣れている。しかし、英語教師の教室での働きは、せいぜい文法の説明をするか、さもなければ生徒の訳した英文の間違いを正し、模範訳をつけることぐらいで、なにか一つのテーマを取り上げてしゃべるということはほとんどない。だから、英語教師に話のうまいのはあまりいないというのが、わたしの経験から得た結論である。
この点、国語教師に文章のうまいのがあまりいないのと、好一対をなしているようだ。ちなみに、ある国語教師の言うには、彼らはたいてい〈眼高手低〉であるらしい。つまり、文章を見る目が肥えているだけに、自分の文章のアラが見えてしまい、書く気がしないそうである。
ところで、わたしが悩んだ理由には、もうひとつあった。それは、教師でありながら、訓話という大仰なものを昔からあまり好きではなかったということだ。いま思うに、訓話漬けであった戦時教育にたいする反感が、自分の体質として定着したせいかもしれなかった。
そういうわけで、指導部主任を引き受けたとき、生徒たちの前でなんとかソツなくしゃべらなくてはならないという自覚が、重い負担となってのしかかってきた。
というのは、他の分掌とちがって生活指導部の主任は、校内で集会があるたびに、千五百人の生徒を前に、学習や生活上のさまざまな問題について話をしなければならなかったからである。
そんな役目を果たす場面は、二つあった。一つは、月に一度ぐらいの割合で行われたアッセンブリー(朝会)という全校集会であり、もう一つは、毎学期の始めと終わりに行われる始業式や終業式である。
とくに夏休みや冬休みを控えた学期末の終業式では、学校長の訓話につづいて、生活指導部からの諸注意が大きな比重を占めていた。
学校が休みになれば他校生とのクラブの試合や交流会があるし、友人と街へでて遊ぶ機会もふえる。飲酒・喫煙・その他、いろいろな問題で外部の風紀係に補導されることもいくつかあった。S高校の生徒は大人しい評判を得ていたが、それでも休暇明けには、指導部職員は問題を起こした生徒の指導措置をめぐって忙しくなったものである。そのようなことがないように、事前の注意は欠かせない仕事であった。
だが、生徒たちはなかなか教師の話は聴かないものである。勉強の話はまだしも、とくに生活上の問題、遅刻をするな、服装をきちんとせよ、掃除をさぼるなというような、細かな生活の乱れや規則違反などについての注意などには、うんざりの表情を浮かべたり、ときには周りの者と私語さえ始めたりする。そんな例は経験上、いやというほど知っていた。
だからこそ、なんとかして生徒たちに聴かせる話をしなければならない。そのためには彼らの心に訴えるものがなければなるまいと、あれこれ悩み、苦しんだすえ、訓話集や講演集、あるいは話し方の本など、なん冊も買って読んだものである。
そのうち、どのようなエピソードを交えれば彼らの興味や関心を惹くことができるのか、どのように話を組み立てれば感動が盛りあがるのか、曲がりなりにも判りはじめたのは、なんども生徒たちの前に立ってからであった。
話すうえで、わたし自身が留意した原則が二つあった。一つはただ、ああせよ、こうせよというだけでなく、なぜそうしなければならないかを、ものごとの本質にまでさかのぼって考えさせることであった。たとえば、なぜ規則が必要か、勉強と生活はどんな関係があるのか、勉強の目的はなにかなど、問題を彼らに投げかけることであった。
もう一つは、身近な仲間や卒業生などの事例や、ときには歴史上の人物たちがどんな生活を送ったか、どんな勉強をしたかなど、具体的なエピソードを多用しながら彼らの興味と関心に訴えることであった。
しかし、だからといってこの原則どおり話が進んだわけでもないし、彼らの心を捉えたわけでもなかった。〈言うは易く、行うは難し〉である。われながら満足のいく話ができたと思えるのは、ほとんどなかった。
わたしの話し下手は、いまでも変わらない。だが、話すことの要領にしだいに慣れ、話すことの必要を自覚できるようになったのは、このときの悪戦苦闘の賜であることはたしかである。その意味で、指導部の係をあたえられたことは、得がたい経験であったと思う。
(平成二十五年五月)
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