わが人生の歩み(14)
− 英語科の先輩教師たち − 安藤 邦男
長い教師生活をふり返ってみて、いちばん懐かしく思い出されるのは、その頃のN高校英語科の先輩教師たちである。国語科や社会科などの教師たちは、型にはまり、教師然としたタイプの人が多いなか、英語科にはどういうわけか教師の枠からはみ出したような人が何人かいた。英語という教科がそうさせるのか、それとも英語を専門として選んだ資質のせいなのか、いずれにしても、個性の強い、一風変わった教師集団だというのが、他教科の英語科批評であった。
英語科のなかで最年長のKさんは、N校三奇人の一人とあだ名されただけに、その変人ぶりは堂に入っていた。イギリス紳士を気取ってか、晴雨にかかわらず常に愛用のこうもり傘を持ち歩いていた。人に訊かれると、護身用の武器だと答える。それに、Kさんは保健部主任という職掌柄、校内の衛生には人一倍気を遣ったが、それも他人のためというより自分自身のためといって憚らない正直さがむしろ受けた。
ある日、トイレにはいると、すでに用を足したらしいKさんがいて、手を洗っている。わたしを見ると、
「近ごろの若い先生はトイレのマナーが悪い。いつも雫を下にこぼす。あなたも気をつけなさい」
と言いながら、一向に出ていく気配がない。けっきょく、用を済ませたわたしが先に出ることになった。「お先に」といってドアを開け、出ようとすると、Kさん間髪を入れずわたしの後ろにくっついて出た。「これだな」と思った。トイレを出るときは、ドアのノブを絶対に自分の手で触らないという噂は、本当だったのだ。
年輩のYさんも、教師らしからぬスマートな紳士。元新聞記者として戦前の上海で活躍したという国際派だけに、英会話には堪能だし、幅広い教養の持ち主であった。当時Yさんは図書館長で、わたしはその下で図書館報の発行やその他の仕事をしていた。親分肌のYさんは何くれとなく面倒を見てくれたし、お茶もよくご馳走してくれた。ときどきは飲みにもつれていってくれた。酔うといつも、上海時代の話が出て、泥棒と人殺し以外の悪いことは大抵やってきたと語る豪放磊落な人であった。ただ、些事にこだわらない大らかな性格から、よく物忘れをした。
ある日の放課後である。司書室に一人だけいたわたしに、Yさんはちょっと用がある、といって先に帰った。口やかましい女性司書が現れて、
「Y先生、遅いですね。どうされたかしら」という。
「もう帰られましたよ」とわたし。「何ですって! 今日は生徒の図書委員会の日で、みんな向こうの部屋で待っていますよ。安藤先生も忘れていたのですか」
向けられてきた矛先から逃げるように、わたしは生徒らの待っている部屋に駆けこんだ。
翌日、謝るのも仕事のうちと心得ているYさん、女性秘書への何度目かの平身低頭の図を演じたのはいうまでもない。
二人の大先輩は、もう何年も前に鬼籍に入られたが、去年(平成十九年)あらたに旅立った人もいる。同じ大学を卒業した一年先輩のSさんであった。N高校への転任は一緒だったから、ともに新任教師として机をならべた仲であった。しかし、在学時代から講義室の質問魔として鳴らしたSさん、職員室でも教室でも、新米教師らしからぬ振る舞いを見せていた。
ある日の放課後、掃除の見まわりに行くと、受け持ちの女生徒が寄ってきて言った。
「せんせい、S先生のフィアンセという人、すごい美人よ」
「へえー、どうして知っているの?」
「みんな、知ってるよ。だって、授業中に『これ、ボクの彼女だ』といって、写真を回すんだもの」
そんなSさんは生徒には人気があったが、権威を振りかざす先生たちのなかには眉をひそめる者もいた。赴任して一年も経たないうちに、SさんはN高校の新しい三奇人の一人に祭り上げられていた。
だが、Sさんはそんな雑音にはいっさい無頓着で、ひたすら原書の小説に親しむ読書家であった。Sさんが本領を発揮するのは、後年、K塾で英作文を教えたときである。豊かな学殖もさることながら、穿ったものの見方や意表をつく発想が学生たちに受けたようで、名物講師として絶大な人気を誇ったものである。
そのSさんも、今は亡い。惜別の日の情景は、昨年末の「君の霊よ、安かれ」に綴らせてもらった。
(平成20年4月)
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