わが人生の歩み(13)
  
−定時制から全日制へ−      安藤 邦男

      

  毎年、正月が明けると慌ただしい3学期になる。普通授業にくわえて、新年度にそなえての入学試験の準備や、卒業生を送り出すための事務処理や会議など、目白押しである。正月にのんびりムードを味わっていたぶん、休み明けの忙しさが身に応える。

その年、最終学年の担任をしていたわたしは、文字通り猫の手も借りたいほどの日を過ごしていた。そんなある日、電話があって校長室に呼びだされた。去年の春からA校長の後任として着任していたH校長が、笑顔で迎えてくれた。

「今度の春で、あなたも卒業生を送り出すことになるが、3年間、夜間部の勤めは大変だったね。ご苦労さん。それに老田先生から聞いたのだが、大学院へも顔を出していたそうじゃないか」

H校長と大学の老田三郎教授とは京都大学で机をならべた仲で、今でもときどき旧交を温めているという。

「はい、でもなかなか研究の方ははかどりません」

それからひとしきり、大学院での勉強のこと、定時制教育のことなど話題がつづいた後で、H校長は切り出した。

「ところで、これを機に昼間部で働いてみる気はないかね。ただ、そうすれば大学での研究は続けられなくなるかもしれないがー」

予想もしなかった話で、すぐには返事ができなかった。

「先生、折角の話ですが、少々待ってもらえませんか。一度よく考えてみたいのですがー」

H校長は快く、わたしの我が儘を許してくれた。

わたしに即答を控えさせたのには、それなりの事情があった。

ひとつは、研究論文のことである。実はその半年ほど前、わたしはヘーゲルを輪読していた大学助手のSさんから新しい就職先を紹介されていた。近畿地方のある県立短大に英語講師の口があるから、行ってみないかという話であった。向こうの教授とも面接し、話はトントン拍子に進むかに見えたが、最終段階で不成功に終わった。Sさんによれば、論文がなかったのがその理由だという。

やはり論文は書いておくべきであった。大学院に籍を置いたからには、論文を書くのは当然のことであり、その義務を怠っていたわたしはあらためて自分の怠惰を後悔した。来年こそは、低学年の担任になって少しは暇になるから、万難を排してでも論文にとり組もうと意気こんでいた矢先のことであった。

わたしが躊躇したもうひとつの理由は、定時制に学ぶ生徒たちへの断ちがたい愛着であった。というより、ここで辞めたら日夜苦しみながら勉学に打ちこんでいる彼らを見捨てることになりはしないかという、一種の後ろめたさのような感情であった。

H校長から話のあった翌日、わたしはすでにいっぱしの高校教師として活躍していた大学時代の友人Kに相談した。

「勉強だったら、大学を離れたってできるはずだよ。院の三年間で君はどれだけ勉強できたというのか。論文だって書いてないじゃないか」

そう言われれば、一言もなかった。

「それに教師として身を立てるとすれば、一箇所でマンネリ生活をしていたんでは成長しない。別れは辛いが、センチになっちゃあいかん。教え子だって喜んで送りだしてくれるよ。チャンスは生かすもんだ・・・・」

日ごろ毒舌で鳴るだけに、この友人の言葉には核心をつくものがあった。目から鱗の落ちる思いであった。やはり大学院は止め、高校教師一本に徹しよう。ようやくわたしは決心がつき、その次の日、H校長に承諾の返事をした。

ふり返ってみれば、3年前、定時制高校の門をくぐったとき、わたしは二足の草鞋を履いた地に足のつかないデモシカ教師でしかなかった。それがあまり年齢も違わない生徒たちとの付き合いの中で、わたしは少しずつではあるが変わっていく自分に気づいていた。彼らの置かれた困難な職場環境の実体を見たり、それにも負けず頑張って通学してくる彼らの純粋な情熱に触れたりするにつれ、わたしの眼は次第に象牙の塔や書物の世界から離れ、そのような情況をつくり出している社会の仕組みや政治のあり方にも向けられていったのである。

その年の3月、わたしは3ヶ年受け持った生徒を卒業させ、4月に同じ学校の昼間部に転任した。もう一方の草鞋を脱ぎ捨てたからには、今度こそは本格的教師生活の始まりであると自らに言い聞かせながらー。

             (平成19年9月作品)

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