わが人生の歩み(12

−生活記録運動のころ−     安藤 邦男

昭和30年、わたしは大学院に籍を置くかたわら、定時制高校で3年目を迎えていた。

そのころ、日本は朝鮮戦争(昭和25〜8年)や自衛隊発足(昭和29年)を境に、大きく右旋回しようとしていた。戦争放棄の平和憲法に大きな夢を託していた日本人の多くは、この事態に激しい危機感を募らせていた。

ある文学者は激烈な口調で語りかけた。

「もしいまの場合、日本民族の滅亡がかけられているとしたら、それでも文学は局外中立を保てるだろうか」

戦争回避のために何かしなければならないという、焦りに似た感情が文学者の間にも広がり、やがてそれは《国民のための文学》をスローガンとする国民文学論の台頭につながっていった。

国民文学論の主張は千差万別であった。例えば、ヨーロッパ文学の教養を身につけた伊藤整などの《私小説否定の上に立つ欧米型近代文学モデルの提唱》、プロレタリア文学の側からの《文学に対する政治の優位性の主張》、それに対しては中国文学者の竹内好などの《政治に対する文学の自立性の擁護》など、さまざまな論議が入り乱れていた。

しかしその底流には、少数派の純文学と多数派の大衆文学とに分離している文壇の構図を、国民文学という旗印で統一しようとする共通の意図があった。

文壇のそのような趨勢にたいして、わたしは一方では歓迎の気持ちがあったが、他方では不満を抑えきれなかった。国民文学を名乗るためには文学はもっと裾野を広げ、あらゆる階層の国民の意識や願望が作品の中に反映されていなければならないという思いがあったからだ。

そう考えたのには、それなりの理由があった。というのは、当時、文壇や論壇を離れたところでは、生活綴り方や生活記録運動が隆盛をきわめつつあったからだ。教育の現場では、無着成恭の「やまびこ学校」(昭和26年)に刺激された生活綴り方の運動があったし、働く人たちの職場では組合やサークルを中心にした生活記録運動があった。これらの運動は次第に高揚し、昭和30年頃には「葦」とか「人生手帳」という生活記録中心の投稿雑誌さえも生まれていた。第1次自分史ブームと呼ぶべき社会現象であった。

国民文学運動は、このような広い世間で書かれる多数の生活記録的書き物を文学のなかに吸収してこそ、国民的基盤に立つ新しい文学の成立が可能ではないか、というのがそのころのわたしの確信であった。

ちょうどそんな時期、いわゆる進歩的文化人の牙城として鳴らした岩波書店の月刊誌「文学」が、「生活記録と文学」という課題で広く論文を募集していた。

定時制高校には新聞部や文芸部があったが、わたしは寄稿したり部員と話し合ったりする程度のかかわりしかもっていなくて、運動としての生活記録にとり組んだ経験はなかった。しかし、日ごろ興味をもっていたテーマだけに、運動実績のなさに引け目を感じながらも、応募することに決めた。

論文の切り口は、生活記録運動の理論的基礎づけということにした。そんな大それた構想を立てたのは、実は実践体験のないわたしにとってほかに取るべき方法のない窮余の一策であったのだ。机上の空論であってもいいから、記録運動を推進している人たちの心の支えにでもなればいい、というのがわたしの本音であった。

こうして、1ヶ月、悪戦苦闘の日々がつづいた。図書館に通い、それまで出されていたさまざまの資料を渉猟しながら、そもそも生活記録運動とは何か、生活記録運動がどのようにして国民文学運動に発展していくのか、そして書くという行為がどうして書き手の視野を広げ、認識を深めることになるのか、という問題の考察に没頭した。

とくに最後の問題、なぜ書くことが書き手の人間的成長を促すことになるかは、論文の中心的テーマであった。その答えをわたしはそのころ読んでいたヘーゲルのなかに見つけようとした。「疎外論」である。人間は、自己の作りだしたいわば自分の分身から逆に疎んじられたり束縛されたりする、だが、そのような過程があればこそ、人間は次にそれを克服する行為が可能になり、新しい自己を創出することができるという理論である。

たとえば、読書に夢中になっているとき人は作品と一体化するが、読書を終えると我に返る。そのときの自己は読書に没入しているときの自己とは別物である。二つの自己の角逐を通して読書による成長が保証されるのである。

書くことも同じ原理である。人は自己を書くことを通して、書く自己から書かれる自己を分離させる。こうすることで人は自己を客観的に見ることができ、書く前までは気づかなかった自己の姿に気づく。ここに自己の成長・発展の契機がある。

このような考えをまとめ、締め切り日の1日前、入選の当てもないままに投函した。

幸運にも、その論文は3編の入選論文の第一席に選ばれ、「生活記録(綴り方)と文学」特集記事の巻頭を飾った。選者は木下順二や小野十三郎などであった。

いま思うに、入選は運動に直接かかわっていなかったことの僥倖がもたらしたものであったかもしれない。渦中にいるものより、ときには局外者の方が物事の本質を正確に把握できることがあるからだ。

しかし一方では、それがわたしの負い目となった。そしてその後わたしの人生は、実践を求めて大きく左旋回をすることになっていくのである。 

              (平成19年7月作品)

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