カタカナ語取材始末記(1)

カタカナ語はなぜ通じないか   安藤邦男

 

平成19年9月のある夜のことである。食事をすませ、テレビでニュースを見ていると、電話が鳴った。

「もしもし、突然で失礼ですが、こちらA新聞東京本社の記者のSというものです。実は今回ですね、『なぜ日本では、外国人に理解できない発音で外来語を表記するのか』という疑問が、わが社の『読者の疑問に答える』欄に寄せられました。それについて、安藤さんのご意見を伺いたいのです」

突然の申し入れだったので驚いた。と同時に《いったいなぜ自分などに?》という疑問が浮かんだ。東京には、その手の専門家は山ほどいるではないか。その点を質すと、

「いろいろ調べているうちにですね、安藤さんの公開しているホームページの論文に遭遇したのですよ。読んでみて《これでいける!》と思ったんですが、やはり取材記事にしないとデスクを通らない。そこで直接お話を伺いたいんです」という。

それからお互いに都合のいい日時をきめて電話を切ると、すぐにメールで具体的な質問項目がとどいた。

打ち合わせたとおり、数日後の午後、その記者は東京から新幹線とタクシーに乗り継いでやってきた。40歳前後のがっちりした体格で、いかにもやり手の記者を思わせる男性である。

書斎に通すと、いきなり質問である。

「カタカナ語はなぜ、外国人に通用しないのでしょうか」

「それはですね、これまでの日本人は、外来語を外国人に理解できるように表記しようと思わなかったし、今も思っていないからじゃあないでしょうか」

「といいますと?」

「カタカナ語というのは、外国文化を輸入したときに一緒に入ってきた言葉ですが、入るやいなやそれは日本人同士で使う国語として定着したものなのです。だから、もとの外国語とはまったく違ったものとなっていますね。そのままではほとんど通じませんよ。というより、通じさせようと思うのが間違っていると言った方が正しいでしょうね」

「ほほー、そういうものですか。でも、せっかく覚えた外来語ですからね、外国人に通じさせたいじゃないですか。無理ですかねえ」

「皆さんがそう思うのは当然のことです。国語辞典には一割のカタカナ語が載っていますし、パソコン雑誌やファッション雑誌を見ればカタカナ語のほうが多いくらいですから、これらが外国で通じれば、国際化の今日、外人とのコミュニケーションにもずいぶん役立ちますね。でも、そのためには、いくつかのハードルを越えなければなりません」

そう言って、わたしは用意しておいたレジメを彼にわたした。それは、記者が送ってきたメールの質問項目への答えをまとめたもので、資料はむかし勤めていた大学の紀要に発表した『カタカナ英語と英語教育』という論文から取ったものであった。

「レジメにもとづいてお話ししますが、越えなければならないいくつかの難関のうち、最大のものは日本人の意識改革、つまり発想の転換です。われわれの多くは、外来語は国語の一種だと考えていますが、そうではなく、国際語だと考えるのです。日本人の間だけで使う言葉としてではなく、その言葉を借入した国とコミュニケーションするための発信の道具にするのです」

「ほう、そんなことが簡単にできますか」

「簡単にはできないでしょうね。もう50〜60年前のことになりますが、『角川外来語辞典』の編者、荒川惣兵衛さんは《世界語》という概念を提唱していますね。そして、《世界語》が成立する前に、まず言葉の貸借が行われた2国間で通用する《国際語》を設定せよというのです。そのためには、カタカナ語の表記を従来の慣用偏重から思い切って原音主義にしなければなりません。しかし、事態は荒川さんの言うようにはならなかったのです。」

「なるほど、実は安藤さんのところへ伺う前に、文化庁へ行って来たのですが、そこでもカタカナ語の書き方は国語として従来の慣用を重視するというものでした」

「そうです。慣用主義も正しい方針にもとづいて行われればまだしも、乱れた表記をそのまま定着させようとする、悪しき慣用主義ですね。文化庁や文科省は、表現を規制しないという名目で、実はカタカナ語の表記を無政府状態にしているのですよ。外来語がどのようにして採り入れられるかといえば、最初に使った人の表記がそのまま広がっていくのです。まるで早いもの勝ちなんです。例えば、Jacuzziは原音表記でいけばジャクージですが、どういうわけかジャグジーと訛り、それが一般的となっていますね」

「そういえば、マスコミなども慣用主義ではありませんか」

「そのとおりです。外国で通じない和製英語を氾濫させている元凶は、マスコミです。正しい言葉の普及に責任のあるNHKでさえ、原音と違うカタカナ語を平気で使っていますね。例えば《クローズアップ現代》、これは《現代を大写しする》という意味ですから、濁らずにクロースアップといわなければなりません。それをクローズアップといえばシャットアップと同じ意味になるので、外国人が聞けば《現代を閉ざす》という、まったく逆の意味に取られてしまうのです」

「わかりました。では、どうすればいいと考えられますか」

「外国語を借入してカタカナ語として使用する人たちに、もっと自覚してもらわなければなりません。」

「そうですね。彼らはその分野の専門家たちですから、表現に責任をもってもらわなければなりませんね」

「それに、カタカナ語を使用するマスコミ関係者、英語教育に従事している現場の先生たちは、できるだけ原音に近い表現や表記を心がけるべきですね」

「なるほど、そうすればそれが新しい慣用として定着していくというわけですか」

 話が佳境に入りつつあったとき、ちょうど妻がコーヒーとケーキを持って書斎に現れたので、一時中断し、ティータイムになった。

さて、わたしの話もここでひとまず幕あいとし、少々横道にそれることにしよう。

わたしは、記者の取材というものは、話し手の言うことが記事に正直に反映されるものと思いこんでいた。ところが、その期待は見事に裏切られる結果になるのであるが、それは後編にゆずるとして、そんなこととはつゆ知らず、そのときわたしは10数年前、外来語表記の改革を夢見て研究に取り組んだころを思い出しながら、記者との対談を楽しんでいたのである。

                           (平成20年2月作品)

                          自分史目次へ