動かなかった時計        安藤 邦男

掛け時計にしろ、腕時計にしろ、昨今のものは電池式では2、3年はもつし、ソーラーときたら期限なしに動く。しかも、電波時計では時刻あわせも不要である。いまでは、時計はいつまでも正確に動き続けるもの、という固定観念ができあがっている。

しかし、20〜30年前まではそうはいかず、時計はよく狂うものであったし、またよく止まるものでもあった。そのころの思い出が二つある。

 (1) −

5月のある晴れた朝である。いつものように妻の支度してくれた食卓についた。気がつくと、掛け時計が止まっている。

「また止まってるな。いま何時だろう」

「おかしいわねえ。たしか2,3日前にネジを巻いたばかりなのにー」

そう言って、妻はテレビをつけた。画面の表示では、7時少し前であった。7時半にはいつものように家を出なくてはならないと思っていると、電話が鳴った。妻が出る。

「えーっ? はーい、はいっ、病院なの? ええー、すぐ伺います」

時ならぬ電話、そして妻の応答、わたしにはピンときた。来るべきものが来たのだ。

「あなた、お母さんが亡くなったの、今朝病院でー」

電話は兄嫁からで、母は今朝、入院先で息を引きとったという。当直の看護師が異常に気づき、当直医が駆けつけたときには、母はすでに意識が無かったらしい。

母は、その数年前から大腿部骨折がもとで寝つくようになり、心不全もあって入退院を繰りかえしていた。その数日前、見舞いに寄ったときは、起きあがれなかったが、まだ声には元気があった。それがこんなに早く亡くなるとはー。

「それで臨終の時間は?」

「午前5時50分だったそうよ」

あれっと思った。妻の言葉がわたしの網膜の残像にリンクしたのだ。確かめるため、もう一度掛け時計に目をやる。やっぱりだ。なんと、止まった掛け時計はまさにその時刻を指しているではないか。

通夜に、葬儀にと、慌ただしい数日がすぎた。久しぶりにわが家へ帰り、居間でくつろぐ。ふと見あげると、時計は5時50分を指したままである。妻も気づいて、ぽつんと言った。

「お母さん、大事なあなたにだけは知らせたのよ」

「うんー、当分このままにしておこう」

四十九日まで、動かないままの時計を眺めては、わたしはやさしかった母を偲んでいた。

昭和55年5月21日、5時50分、入院先のK病院で母はなくなっている。享年80歳(満78歳8ヶ月)であった。


− (2) −

暗闇の中で、どこからともなく光が差してきたようだった。眼底が白くなる。朝だろうか。いやまだだと思いこませると、ふたたび闇の底に引きずり込まれていく。今度はかすかな物音、地底から響いていたようだが次第に大きくなる。人の声だと気づいたとたん、目が覚めた。耳をすますと、往来はすでに人通りがしている。

とっさに掛け時計を見る。しまった! 7時だ。まだ眠っている妻をたたき起こす。

「ベルの音、お前も聞こえなかったのか!」

怒鳴りながら、昨夜6時にセットしたはずのラジオのアラーム時計を見る。なんと、3時で止まっている。あろうことか、夜中に停電とはー。

洗面も食事もすっ飛ばして、てんやわんやの身支度。前夜用意しておいたボストンバッグをひっつかみ、自転車に飛び乗る。

「気をつけてよー」

と叫ぶ妻の声を後ろに、駅まで一目さん。やっと地下鉄の乗客となる。

腰をおろしたが、足は宙に浮いたままだ。腕時計を見ると、7時10分・・・・。集合時間の7時30分には、間に合うはずがない。

昨日、事前の集会で、生徒たちに時間厳守を申し渡したばかりである。

「諸君、修学旅行でいちばん大事なことは何か! そう、集合時間に遅れないことだ!」

その自分が遅刻するとは、ああー。

不安と焦燥、そして屈辱が脳裏を駆けめぐる。地下鉄のおそいこと、停車するたび、駅の存在を恨んでいた・・・・。

その日は、山陰方面への修学旅行に出発する当日だったのだ。指導部長をしていたわたしは、5クラスの生徒を引率する責任者であった。

 7時50分、駆けつけた名古屋駅の壁画前には、もう生徒らの人影はない。改札口では、添乗員がわたしを待っていた。

 「すみません。少々トラブルがあってー」

階段を駆け上がりプラットフォームにつくと、すでに生徒たちは列車に乗り込んでいる。

学年主任のN先生が手招きをしている。乗りこんで、同じ詫び言を繰りかえす。

「保護者への挨拶や生徒たちへの事前指導は、私の方ですませておきました」

遅れたわたしに理由も聞かず、何ごともなかったかのように話す学年主任のN先生に、わたしは心の中で手を合わせていた。

列車は8時ちょうど、最初の宿泊地、広島にむかってゆっくりと出発した。

この出来事がトラウマとなったのであろう、以来わたしは遅刻恐怖症となった。その当座は、なんども悪夢に襲われた。走っても、走っても、ゴールに到達できないわたし、それをあざ笑うかのような生徒らの声、目覚めると寝汗で身体中がびっしょり濡れていたー。

いまでもわたしは、朝早く起きなければならないときなど、目覚まし時計を二つセットすることを忘れない。

                 (平成19年11月作品)

                     自分史目次へ