車にご用心!                    安藤 邦男
 
   

間もなく9月になろうというのに、連日うだるような残暑が続いていた。少しでも涼しいうちにと、早めに家を出た。それに、遅くなっては待ち時間が長くなる。

「車に用心してね!」

妻の言葉が後から追いかけてきた。今日は、月に1度の医者通いの日である。

医院へ行くには、途中で駅前からグリーン・ロードへ通じる大通りを横切らなくてはならない。そこは信号がないうえに、車の往来が激しく、渡るには細心の注意が必要な場所だ。心配する妻の顔を心に浮かべながら、いつものように車を何台かやり過ごしていた。

そのときである。1台がスッとわたしの前で停まり、なかから1人の男が首を出した。道でも訊くのかと思って、目をやった。50歳がらみのサラリーマン風の男である。

「ちょっと、すみませんがネー」と言いかけて、男は少しためらったあと、言葉を継いだ。

「実はですね、私いま商売をしてきた帰りですがね。売れ残った物があるんで、困っているんですよ」

「え?」

「こんなもの会社へもち帰っても、どうしようもないから、貰ってもらえませんか」

「ハアー?」

「これですがね」と、男は窓から手を差し出した。手の平には1個の腕時計が乗っていた。折しも朝陽を受けて、まばゆいばかりに金色に輝いている。一見、高価な時計を思わせた。

「これ貰ってくださいナ。あげますよ」

半信半疑であったが、只でやるというのなら貰っておこうかと一瞬思った。だが、そんなうまい話があるはずないと、すぐに考え直した。

「本当にいいの?でも、ずいぶん高価な物じゃあない? 貰ったら、後で高い金を要求されるんじゃないだろうね」

 わたしはすでに、男の態度にうさんくさいものを感じ始めていた。

「そんなことはしませんよ。ただネー、物をもらったら、誰だってそれ相応のお礼をしてくださるんじゃないですか」

 なーんだ、やっぱりそうだったんだ。案の定である。

「ダメ、ダメー、お金ないよ。時間の無駄だから早く行きなよ」

わたしとしては素早い反応であった。そう言い残すや、長居は無用とばかり、小走りで彼の車の後ろに回り、運よく途切れていた往来を急ぎ渡った。

 医院から帰って、ことの顛末を妻に話した。

「妙な男がいるもんだ。あんなことで引っかかると思うのなんて、あの男、よほど甘い人間だな」

「それ、車を利用した新手のキャッチセールじゃない? でも、どうでしょうね。そんな人に声をかけられる方が、よっぽど甘ちゃんじゃないの? お父さん、ぼーっとしてるからー」

口にかけては妻に勝てるはずがないので、ついわたしは黙ってしまう。すかさず妻はフォローする。

「でも、人通りの多い、白昼でよかった。夜だったらどうなっていたかー」

妻の念頭には、つい数日前に千種区の路上で起こった女性誘拐殺人事件があったのは確かである。多分あの事件も、車から言葉巧みに誘われた上での惨劇であったろう。

車の怖さは、交通事故だけではないようである。

                          (平成19年10月作品)

                    自分史目次へ