フロリダ滞在記          安藤 邦男


 (1)倉皇(そうこう)の旅立ち

それは1通のメールからはじまった。

「フロリダの4月は寒からず、暑からず、1年で一番いい季節だから、クニちゃん、ぜひ来なさい」

メールの送り主はヤスコ、幼なじみの従妹で、私とは一つ違いである。

幼いころはよく遊んだものだが、戦後、叔父一家がわが屋敷に仮住まいするようになってからは、ヤスコも女学校や女専へ通うようになっていて、あまり言葉を交わすこともなくなっていた。

英文科を専攻した彼女は米軍関係の施設で通訳をしていたが、そこで知り合ったアメリカ人と結婚し、あっという間に渡米してしまった。

学生時代、ヤスコとも面識のあったわたしの友人のいわく

「相手が空軍将校だとすれば、《トンビにあぶらげを浚われる》の図だな」

そのヤスコと再会したのは、12年前、学生を1ヶ月の語学研修にカナダへ連れて行ったときのこと。彼女は子供や孫たち8人を連れてやってきた。40数年ぶりの対面である。感激したわたしは一家を日本料理店に招待し、つもる話に時間を忘れた。

2年前、彼女の父の法要で来日したヤスコは、わが家へ立ち寄り、遊びに来るよう誘った。しかしそのころからわたしは体調を崩し、海外旅行はお預けにしていた。だが、快復の兆しが見えるにつれ、またぞろ旅ごころが頭をもたげ、妻とともに候補地えらびにあれこれ迷っていた矢先の、ヤスコのメールであった。

囲碁に《長考派の早打ち》というのがある。日常の言葉で言えば、《愚図のあわてん坊》だ。わたしはいつも何かを決めるのに時間がかかり、土壇場になって慌てふためくという悪癖の持ち主。今回もご多分にもれず、やっとその気になったのは出発可能日まで1週間しかないという、瀬戸際の日であった。

さあ大変、切符はかろうじて間に合ったが、持ち物の準備や先方との連絡でてんてこ舞い、そのうえ介護施設で暮らすヤスコの母の近影をビデオに収めるやら、土産物の選定と購入に駆けずり回るやらで、あっという間に時間切れ。こうなっては後に引けない。ルビコン川は渡るしかないと、妻と2人で機上の人となる。

 

(2)あい集う家族

 およそ一昼夜をかけて着いた先はフロリダ洲の西端、メキシコ湾に近いフォート・ウオールトン・ビーチ空港。夜、9時を過ぎていた。迎えにきたヤスコの次女ジャンの車で、1時間ほど北のポンス・デ・レオンにあるヤスコの家に向かった。

 翌日、時差ボケの眼をこすりながら外に出て驚いた。2,000坪もあろうかと思われる庭は芝生がきれいに刈り込まれ、ヤスコの丹精した黄や赤の花々が咲き乱れている。フェンスに囲まれた庭は、ちょうど扇の要に位置し、後方にはその数倍の牧場が広がっている。合わせると、10.000坪近い敷地だという。

 夫のジョージは最近軽い脳梗塞をわずらい、いまは車の運転も禁じられ、家でぶらぶらしている。恰好の話し相手を見つけたのが楽しいのか、わたしをつかまえてしゃべりまくる。いまは老馬*を1頭だけ放し飼いにしている牧場を散歩したり、ウインド・チャイムが風を運ぶ緑陰のあずま屋でコーヒーを飲んだりしながら、わたしはジョージの半生やアメリカの歴史などを聞いた。はじめ戸惑った彼の英語も数日経つうちに次第になれてくる。ヤスコは久しぶりの日本語が使えるのが嬉しいのか、妻を相手に昔話に花を咲かせている。
 *ミスティーという名のこの馬は私たちが日本へ帰った1週間後に死んだ。

 しばらくすると、近くに住む次女のジャンとその夫がやってきた。つづいてはるばる西海岸から長男で弁護士のジョージ2世が、そしてフロリダ半島のオーランドからは看護師をしている長女のヤスミンが、父の様子を見がてらにそれぞれやってきた。

 何かあるとすぐに集まるのが、いかにもアメリカの家族らしい。そして集まるとパーティーだ。食べたりしゃべったりして、賑やかなことこのうえもない。われわれの滞在中も、こんなパーティーが3度もあった。こうして彼らは、家族の絆を固め合っているのであろう。

家族の絆といえば、もう一つ感銘を受けたことがある。それは、お互いの呼びかけにかならず相手の名前をいうことと、言葉の端はしにサンキュウを付けることである。日本人にはうるさいほどに感じられるが、これこそ家族愛の発露だと、妻は羨ましがっていた。

 次女のジャンは、メキシコ湾に面するサンタ・ローザ・ビーチに住んでいるが、車で40分ほどの道のりを毎日のようにやってきて、われわれを彼女の邸宅まで運んでくれた。

 このあたりは、開発途上にあるリゾート地で、彼女はそこで家屋付き別荘地販売を一族で手広く行っている女社長である。2億円するという豪邸に住み、趣味のクラシック・カーをはじめ高級車レクサスを数台、それにヨットを2艘持っている。

 父親のジョージは、「ジャンは4人の子供の出世頭だ」と、アメリカ人にありがちな手前味噌を並べるが、大和撫子の気風をいまだに持ちつづけるヤスコは、自分の娘を人前で自慢したりはしない。

ジャンの家での思い出といえば、木道を5分歩くと到達する世界に二つしかないという真っ白な砂浜や、そこで眺めた黄金の夕陽の威容もさることながら、圧巻は夫ジョンの所有するヨットでのメキシコ湾帆走であった。イルカが船べりまで寄ってきて頭を出したのには、同行していたジャンの孫たちも大喜び。

(3)別れも楽し

 明日発つという最後の晩には、特別の豪華パーティーをしてくれた。ジャンの1族をはじめ彼女の知り合いも含めて、総勢20人の集まり。卓上には、妻がヤスコといっしょに握った寿司、ジョンが釣ってきたスナッパーのフライと刺身などが並んでいる。いずれも手作りだ。久しぶりのワイン・グラスを傾け、夜の更けるのを忘れた。

宴が楽しいほど、別れはつらいもの。だが、それを救ってくれたのは彼らの熱烈な別れの挨拶であった。指を折れんばかりに握りしめたジョージの握手、わたしの差し伸べた手を振りはらい、いきなり豊かな胸と頬を押しつけてきたヤスミンの抱擁。これがベア・ハグなるものかと、はじめて経験したその強烈さに驚く。

そこへいくと、ヤスコはやはり日本人であった。遠慮がちではあるが、大切なものを胸に残したいという思いが伝わる確実なハグである。

帰国したいま、この記録を書きながらも、「クニちゃん」を連発したヤスコの声が耳の底にひびく。ヤスミンの力強いハグの感触を思いおこして、年甲斐もなく胸がうずく。そして、欧米人の挨拶がハグにしろキスにしろ、なぜ濃厚であるかということがわかった気がしている。それはたぶん、思い出を脳裏の中に秘めるだけでなく、肌の感覚として忘れずに留めおきたいという願いの表れであろう。

数日経ったある日、ジャンから英文のメールが来た。

「入院しているグランマーを見舞ったら、私が愛していると伝えてください。そしてハグとキスをしてあげてください」とある。

 「そんなことをしたら、叔母さんはどんな顔をするだろう」

「あんがい喜ぶかもね」

 妻は楽しそうにいうが、さてどうしたものかと、わたしは目下思案中である。

(平成19年5月)

                  自分史目次へ