わが人生の歩み(11)
ー わたしを変えた教え子たち ー 安藤 邦男
わたしの教師としての原点は、この定時制高校での三年間にある気がしている。はじめのうち、それは大学院を続けるための手段に過ぎなかったが、次第にわたしの心の中で大きな比重を占めるようになり、教師としての資質をつくりはじめていた。
担任として受け持ったクラスには、いろいろな生徒がいた。中学を卒業してすぐに入学した子はむしろ少なく、多くのものが数年の職業経験を持っていた。生徒といいながら、彼らはもう一人前の社会人であった。
だが、働くことと学業の両立はむつかしく、卒業するまでには何人もが退学していった。そのなかに、わたしとあまり年の違わないNとMがいた。あるとき、その二人が職員室にやって来て、学校をやめたいという。
「もう一年で卒業だから、何とか続けたまえ。せっかくここまで頑張ったんだからー」
引き留めるのに、通りいっぺんの言葉しかでてこない自分が情けなかった。
「高校の授業はちっとも面白くないです。それに、資格をとって出世に役立てようという気持ちもありません」
二人は同じ趣旨のことをいった。職場の労働組合に関係しているというNも、自営で印刷の仕事をしているMも、ほかにもっと大事な、やりたいことがあるといって、教師の説得には耳を貸さなかった。
働く者にとっては、勉強とは無意味な、机上の空論にすぎないのだろうか。それまで、生きることの意味を学問や書物から学ぶことができると信じていたわたしにとって、それを否定する彼らの生き方はショックであった。
新緑が芽吹きはじめた初夏のある日、その春に卒業したばかりの一人の青年が自殺した。驚愕が学校中に走った。
学業も体育もともにすぐれ、生徒会長も務める模範生であった彼ー、一年前、東京での全国定時制高校弁論大会では、愛知県代表としてかなり上位にまでくい込んだ彼ー、その彼に計り知れない心の闇があったとはー。
あらためてわたしは、彼の手記を載せた卒業文集を繰ってみた。
「・・・できれば自己を無限の存在と信じたい。しかし自己を押し通すにはこの現実はあまりにも厳しい。必然《有限意識》を持たざるをえない。しかしそれは敗北だ。われわれは《有限意識》を離脱し、《無限意識》へ一歩進展しなくてはならない」
この、生硬ともいえる言葉の羅列のなかに、彼を死に追いやった秘密があるというのか。
翌月の生徒会新聞に、わたしは《ロマンチシズムの敗北》と題して寄稿した。
「・・・A君のあまりにも純粋なロマンチシズムは、それを否定する現実の圧倒的な力の前に、はかなくも敗れ去った」
自分としては、彼の死を悼み、もっと現実的になれと、ほかの生徒たちに呼びかけたつもりであった。だが、彼の親友のTにはそれが伝わらなかった。
「評論家気取りで、Aの死を一般化しないでくださいよ。先生なんかに、彼の苦しみが判るもんですか」
抗議する彼の目には、光るものがあった。
人の死を教材にすることの不遜をわたしは恥じた。そして生徒の心をくみ取れなかった教師の限界を感じ、無力感に襲われた。
このようなとき、わたしの足は救いをもとめて象牙の塔に向かった。そうすれば心は癒されるが、その一方で教育現場からさらに関心を奪うことになることに気づかずー。
そんな二足の草鞋を履く者の酬いなのか、職場では依然としてへまばかりしていた。
四月の入学式当日、職員打ち合わせ会で、定時制主事のI先生がわたしにいった。
「対面式でのスピーチは誰がやることになっていましたか?」
入学式の後の新入生と在校生との対面式では、在校生代表が歓迎スピーチをするのが恒例であった。
「えっ? はい、あのーN子です」
しどろもどろであった。伝えることを忘れていたとはいえなかった。
ホームルーム室長のN子が登校するのを校門でつかまえた。
「きみ、急で申し訳ないが、対面式で挨拶をしてくれないか」
断られても文句は言えなかった。
「せんせい、いまごろになって、ひどーい!」
なじりながらも、責任感のつよい彼女は引き受けてくれた。ぶっつけ本番で、途中少々とちったところはあったが、何とか無事急場をしのいでくれた。
人は許されるとき、はじめておのれの前非を悔い改めるもの。わたしが教師として本腰を入れはじめたのは、この事件がきっかけであったかもしれない。そしてそのときから、わたしは彼女に頭が上がらないままである。終生を共に過ごすことになったいまもー。
(平成19年4月)
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