わが人生の歩み(10)
ー 定時制高校教師になる ー 安藤 邦男
昭和二十八年が始まるとすぐに、大きな歴史的事件が二つあった。ひとつはNHKテレビの放送開始(二月)であり、もうひとつは、独裁者スターリンの死(三月)であった。この年を境にして、日本は大きくテレビ時代に突入していったし、世界はイデオロギーの多極化時代を迎えることになるが、そのことに気づいた者はまだ誰もいなかった。
そして四月、それまで非常勤講師として勤めていたN高校の定時制課程に、わたしはあらためて専任教諭として就職することになった。本格的教師時代の始まりである。
とはいうものの、その頃のわたしは教師を天職として意識したことはなかった。それどころか、今から思えば、当時流行りはじめていたデモシカ先生ー先生にデモなろうかと思ってなった教師たち、実は先生にシカなれない教師たちーという、身過ぎ世過ぎの腰掛け教師にしかすぎなかったのである。
定時制を選んだのも、大学院に籍を置いたのも、ハッキリ自分の将来を決定したくないという気持ちのなせる業であった。モラトリアム人間のハシリというのもおかしいが、決定を先延ばししたいという、優柔不断で自意識過剰な、若者特有の心理であったと思う。
そしてわたしはまだ、かつて軍国少年を裏切った教師にだけはなりたくないという呪縛から解放されていなかったのである。その自分が教師になるとはー。早く足を洗って、別の仕事に就きたいという気持ちをもちながら、それを表に出すことは許されないまま、面従腹背の教師稼業をつづけるわが身が情けなかった。
N高校定時制課程は創立三年目を迎えたばかりであり、専任教諭はわたしをふくめて三人しかいなかった。
受け持つことになった二年生のクラスは、ほとんどの者が職業をもっているという点は共通していたが、そのほかの点はさまざまであった。経済的理由から全日制を断念した者、就職後向学心を抑えきれず定時制の門を叩いた者、なかには卒業資格だけに魅力を感じてきた者など、彼らの通学の動機は一人ひとりが違っていた。学力も大いに幅があったし、年齢差も大きく、最年長の生徒などはわたしと同年であった。
勤務は予想以上にきつかった。授業は五時半から始まったが、教師はその二時間ぐらい前には登校し、いろいろの事務をこなさなければならなかった。途中、七時から休憩があり、その間に店屋物の食事を摂った。
終業は九時、しかし校門を出るのは九時半を過ぎていた。途中の市バスや郊外の電車は、終車近くになると乗客もまばら、しかも酔客が多かった。侘びしさが襲い、そんなとき、定時制高校を選んだことを後悔するときもあった。乗り継ぎ駅の屋台で、一杯飲むことが多くなった。
一方、大学へはときどき、正午近くに顔を出した。旧制度の大学院は、新制度のそれとは違って、単位を取る必要はなく、教授に顔を見せたり、図書館や研究室で本を借りたりした。ポーをはじめ、世紀末文学者の作品をいくつか読んだりしていた。
あるとき、英文科の研究室へ行くと、助手であるSさんが声をかけた。
「ヘーゲルの美学をいっしょに読みませんか」
研究室からヘーゲルの「美学講義」の英訳を借り、週に一度、Sさんと二人だけの輪読会が始まった。象徴主義、古典主義、浪漫主義などの芸術様式の発展を人間精神の成長と関連づけて説明するヘーゲルの壮大な芸術観・歴史観に圧倒されながら、ときには絶望感に襲われたり、ときには知的興奮を覚えつつ、格闘した。
こうして一年が過ぎた。
二年目になると、定時制高校はもう一学年が増え、新しく二人の教師が転任してきた。その一人にFさんがいた。戦う愛高教(愛知県高等学校教職員組合)の輝ける書記長として鳴らした人である。
話は遡るが、わたしの大学の同期生のなかに、新任早々のある高校でPTA会費の不正を暴いた男がいた。勇気のある男だと思っていたら、突然解雇が言い渡された。理由は、半年間の仮採用期間中の職務命令違反だという。不当解雇というので、組合は彼を守るために組織をあげて県教委相手に戦ったのである。そのとき、本人といっしょに県庁前に座りこんでハンストを行ったのが、ときの書記長Fさんであった。
職場の組合にはむろん加入していたが、わたしは形ばかりの組合員であった。研究生活を自分の一生の仕事にしようとしていたわたしは、平和運動や組合運動にはそっぽを向いていた。
あるとき、組合主導の教育研究集会があるというので、前書記長のFさんに勧められるまま、わたしも分担して研究発表のためのレポートを作ることになった。題して「定時制高校生の意識について」である。定時制高校生のおかれている現状と、彼らの考え方や感じ方を直接聞いたり、アンケートを取って調べたりしているうちに、わたしはそれまで無関心であった社会の矛盾をいやでも気づかないわけにはいかなかった。
わたしの意識が少しずつ変わりはじめたのは、その頃からである。
(平成19年2月)
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