わが人生の歩み(9)

   ― 卒論は提出したが ―
           安藤 邦男


大学での最終学年、三回生になると、いくつかの変化があった。

まず、N高校での英語講師の仕事は、その年からは夜間定時制生徒の受け持ちに変わった。勤務は週二日となり、前年までの週三日と比べるとかなり余裕であったが、それでも夜の仕事はいままでと勝手が違って相当きつかった。だが、このときの経験は、後にわたしの人生に大きな影響を与えることになる。

大学では、工藤好美教授の後任として、カーライル「英雄崇拝論」(岩波文庫)の訳者として知られる老田三郎教授が赴任された。学生の誰にも話しかける気さくな先生で、お宅にお邪魔して美しい奥さんの手作りの寿司をご馳走になったりしたことを覚えている。

ほかに講義で思い出すのは、工藤好美教授が各学部をカバーする「世界文学」という視点から創設した新しい講座である。それぞれの専門分野から多彩な顔ぶれの教授が集中講義にきた。ギリシャ文学は土居光知、イタリア文学は野上素一、英語学は中島文雄、国文学は高木市之助、言語学は小林英夫、国語学は時枝誠記などであった。

その中でとくに印象に残っている講義があった。ソシュールの紹介者である小林英夫の言語学概論である。いまでも思い出す言葉がある。

「エスキモーには粉雪とかぼた雪とか、雪の種類を表す言葉はあっても、雪という言葉はありません。なぜだか判りますか」

はじめて言葉の不思議を知った。言葉は差違の体系だったのだ。すべてが雪の国では、雪をそれ以外の物から区別して命名する必要がなかったのである。

それまで、ヘーゲルやマルクスからサルトルへという、いわば世界変革の思想にかぶれ始めていたわたしには、ソシュールは単なる形式的観念論としか思えなかった。実はそれは、言語を「差異の体系」として位置づけ、後の構造主義やポスト構造主義を生み出す新しい思想の萌芽であることを、そのときは知るよしもなかった。

それはさておき、それ以外の講義へは足が遠のいていった。図書館や自宅にこもって卒業論文の準備に忙殺されたからである。

取り上げた作家は、かねて興味をもっていたエドガー・アラン・ポー。中学時代から翻訳はかなり読んでいたが、原文を通して読むこの作家の文章はまた格別であった。何冊かのまとめのノートを作りながら没頭した。

彼にはいくつかの顔があった。「盗まれた手紙」などで謎解きの面白さを提供する推理小説の創始者であるかと思えば、「ベレニス」など読者の恐怖心をそそる怪奇作家でもあった。一方では「大(おお)鴉(がらす)」や「アナベル・リー」などで象徴詩の先駆けを世に問うた詩人でもあり、また作品の創作課程の心理にまで踏み込むすぐれた文芸批評家でもあった。ポーは、いまでいうマルチ・タレント作家であった。

この研究には、サブテーマが二つあった。ひとつは、ポーのなかにある詩的要素と科学精神がどのように結びついているかの解明である。もう一つは、十九世紀のアメリカという後進国にあって彼はどのようにして新しい文学を創造できたかということ、つまり時代と個性の関係を掘り下げることであった。

とにかく、扱った範囲が大きすぎたのである。最後まで粘ったが、未完のまま提出せざるを得なかった。おまけに頼んだ英文タイプの仕上がりが遅れ、一月末の締め切り日の当日、ようやく教務部に提出することができ、待ちわびていた事務職員に怒られたことを思い出す。

老田教授は褒めてくれたが、未解決の問題が多く、卒論の出来は自分では納得がいかなかった。わたしの中にはもっと研究を続けたいという気持ちが芽生えはじめていた。

そのうちに、クラスメートの数名が大学院に残るという噂を聞いた。ならば自分もということで、即座に入学手続きを取った。

むろん、卒業後の就職は確保してあった。実は、その年から愛知県では全県一律の教員採用試験が行われることになっていた。わたしたち旧制度の最終卒業生は、新制大学第一回生とともにその制度の最初の受験生として、狭き門をくぐったのであった。筆記試験のほかに面接があったが、そのときのわたしの試験官は幸運にもそれまで講師として勤めていたN高校の校長であった。

「きみのことは、面接せんでもわかっとる」の一言で採用と決まったのであった。

だが、大学院で勉強するからには、昼間の自由時間を確保することが先決であると思い、決定していたN高校の全日制教諭のポストを急遽そこの定時制に変更してもらった。

こうして、教師と学生という二足のわらじを当分続けることになった。二十三歳の春のことである。

                             (平成18年11月)

                        自分史目次へ