誤解・誤訳もまた楽し                     安藤 邦男
                                              

短大でのゼミは、いつも自分の研究室でやっていた。一〇人ほどのゼミ学生が入ると、狭い部屋はいっぱいになった。少々窮屈であったが、殺風景な教室と違ってくつろいだ気分になれるのか、彼女らはいつも活発に発言した。教材は英語のことわざ集で、分担して発表することにしていた。

ある日、実際に行われた授業風景を、思い出すままに再現してみよう。

まず、当番のA子が口火を切る。

「Frailty, thy name is woman.ですが、《弱き者よ、汝の名は女なり》という和訳がそのまま日本語のことわざになっています。そう訳したのは坪内逍遙で、原典はシェークスピアのハムレットです」

すかさず、B子が質問する。
「それ、どういう意味? 弱い女に呼びかけて、お前はやっぱり女なのね、ということ?」

「そうだと思います。弱い女性へのいたわりの言葉ですよね」とA子。

「さすが、レディー・ファーストの国ね」とC子。

こうなっては、指導教官の出番である。

「なるほど。レディー・ファーストときたね。これについては後で説明するとしてー、さっきの《弱き者よ》のことわざだけど、本当はいたわっているのではなく、なじっているんだよ」

「え? どうしてですか?」

「それはね。ハムレットの母親は夫(つまりハムレットの父)が死ぬと、すぐに父の弟(つまりハムレットの叔父)に心を動かし、再婚してしまう。それを嘆いてハムレットがいったのが、その言葉なんだ。すなわち《女は誘惑にもろいもの》というのがもとの意味。『脆きもの』と訳せばまだしも、『弱きもの』と逍遙が訳したばかりに、そんな誤解が生まれたんだ」

「すると、これは誤訳と言えますか」とD子が口をはさむ。

「いや、誤訳とは言い切れないが、間違った解釈を引き起こす翻訳であることには違いないね。逍遙はのちに『弱き者』を『脆き者』と改めたが、最初の訳が定着してしまったわけさ」

「ところで先生、さっきレディー・ファーストという言葉を後で説明するといわれましたがー」とA子。

「そうそう、これも誤解だね。日本では、女性がいろんな面で優先され、大切にされることと取られがちだが、実は違うんだ。英語で Ladies, first.《レイディーズ・ファースト》というのは、 

「ご婦人からお先に」という意味で、せいぜいタクシーに乗ったり、レストランで席に着いたりするときの優先順位にすぎないんだ」
わたしは続けた。

「実際は大切にされるどころか、レディー・ファーストの起源はこれとはまったく反対だという説がある。むかし騎士の時代には暗殺や毒殺が横行し、いつ敵にやられるか知れない。そこで訪問客などがあると、まず妻を先頭にして扉を開けさせたという。女性ならいきなり斬りつけられることはないとの考えだが、夫の身代わりであることには変わりないわけさ」

「へー、翻訳語とかカタカナ語とかには、いろいろ問題がありますね」とE子。

「そう、日本の読者は翻訳を信じすぎる。Every translator is a traitor.《翻訳家は反逆者》ということわざもあるのだから、翻訳語には用心しなければならないのだよ」
「あのーそういえば先生、シンデレラの《ガラスの靴》というのは誤訳だと聞いたことがありますがー」と勉強家のF子がいう。

「よく知ってるね。それはイギリスの百科事典ブリタニカに載っている話だが、《ガラスの靴》というのは、《リス皮の靴》の誤記だというのです。『シンデレラ姫』を最初に紹介したのはフランスの童話作家ペローだが、彼はヨーロッパの民話を古老たちから聞き取って書いているうちに、発音が同じだったものだから、リスの毛皮《vair》をガラス《verre》と誤解して記したというのです」

「ほんとですか! でも、それだと幻滅だわ」との声があって、一座がどよめく。

「そうね。幻滅かもしれないね。しかし、安心しなさい。いったん《ガラスの靴》と決まったものはもう《リスの毛皮の靴》にはならない。考えてみれば、王宮にはふさわしいのは《ガラスの靴》ですよ。それが果たして履けるかどうかはどうでもいい。童話の世界では、美しく、幻想的でありさえすればいいのです。グリム童話では「シンデレラ姫」の原題を直訳して「灰かぶり姫」となっているが、それでは夢が消える。やはり、《ガラスの靴》を履いた《シンデレラ》の方が美しいし、楽しい」

「先生、そんなに自分勝手に解釈していいのですか? 先生の最初のお話と違うのではないですか」とF子は不満げである。

「いいとも! タテマエはタテマエさ。それに、反逆者の翻訳家には復讐しなくちゃね。 いいことわざがあるから、教えておこう。We soon believe what we desire.《ひとは自分の望むことを信じるもの》とね。」

「じゃあ、わたしも好きなように解釈して、信じよーっと」だれかが混ぜ返す。

ぼつぼつ、いつもの彼女らの冗舌がはじまる頃であった。

「だったらあなた、彼氏に《弱き者よ》といたわってもらい、《レディー・ファースト》といわせて大事にしてもらったらー」
「いいわねー。そうしたら《ガラスの靴》履いて、パーティーに出かけちゃうかなー」
「そうよ。王子様に見そめられるかもよ」
「アレ? アレ? 彼氏かわいそうー」

屈託のない女たちのおしゃべりに、男の教師が入り込む余地はなかった。

                   (平成18年6月)

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