第二話 姿なき救世主 安藤 邦男
「私が命拾いしたのは、アミちゃんのお陰よ」と、思い出しては、妻は口癖のようにいう。
十年ほど前の初夏のある日、久しぶりの上天気で、妻は家中の窓を開け放ち、二階のベランダで干し物をしていた。
門扉の開く音がして、誰かが入ってきたような気配が感じられた。急いでベランダから階段へまわり、そこを途中の踊り場まで降りてくると、玄関が見わたせた。
ドアは閉めきってあるのに、すでに中に誰かが入っている。背広姿のサラリーマンらしき中年男。一瞬、妻はギョッとした。ベルを鳴らすでもなく、許可を請うでもなく、いきなり他人の家に入り込むとは! 目を凝らすと、青白い顔は緊張のためか引きつっている。
男は上がりがまちにカバンを置くと、中から何かを取り出そうとしている。男の異様な行動に妻は危険を直感。脱兎のごとく階段を駆け降り、その勢いで、
「ちょっと失礼!」
と叫ぶや、裸足のまま男の側を駈けぬけ、玄関を開け放って外へ飛び出した。そして隣家に向かって、大声で叫んだ。
「アミちゃーん! アミちゃーん!」
妻の勢いに、男はどぎもを抜かれたのか、これもまたアッという間もなく、無言のまま妻の横をすり抜け、走り去った。この間、数秒もあったろうか。開け放れた門扉を締めながら通りを見わたすと、男の姿はもはや影も形もなかった。
家に入って、早速警察に電話した。
「怪しい男がこの辺をうろついています。みなさんに用心するよう呼びかけてください」
帰宅したわたしに、妻は興奮冷めやらずの風情で、事の仔細を話した。
「ところでアミちゃんって、たしか隣のイヌの名ではー?」
「そお、お隣の犬よ」
「へー? でも、あの犬、もう去年死んだんじゃない?」
隣家には十年来の飼い犬がいたが、一年ほど前、老衰で死んだはずである。
「そうよ。でも、どうして死んだアミちゃんに助けを求めたのか、自分でもわからないー。あの仔、きっと、天国から私を助けてくれたにちがいないの。」
「そうか、その男、まさか犬を呼んだとは思わなかっただろうね」
妻はいまでも、あれは訪問販売を装った空き巣狙いか、押し込み強盗にちがいないと信じている。難を逃れたのは、ことのほか妻になついていたアミちゃんのお陰なのである。
しかし、妻の思いこみとは裏腹に、あれは本当は気の弱い、善良なセールスマンではなかったかと、わたしは心の片隅では考えている。それというのも、うっかり開け放しにしておいた玄関のドアからふっと入り込んだセールスマン氏、案内を請う声をかけたが、干し物に余念のなかった妻にはそれが聞こえなかったかもしれないのである。
「あら、またカギがかかってないわ。」
今日も夫の不用心を咎めながら、外出から帰った妻は内側から玄関に施錠している。何ごとにも大ざっぱな妻が、昼間でも玄関にカギをかけるようになったのは、あの事件があって以来である。
(平成18年9月)
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