妻の小さな奇跡体験(第一話 〜 第三話) 安藤 邦男
ナサニエル・ホーソンの短編に、こういうのがある。
ある若者が旅の途中、カエデの木陰で休んでいるうちに眠ってしまう。そこをいろいろな人が通りすぎる。最初は富裕な商人の夫婦。その若者を自分たちの養子にしようかと相談するが、話半ばでちょうどやって来た駅馬車に乗ってしまう。次ぎに現れたのはやはり金持ちの商人の一人娘。彼女は若者を見て胸をときめかすがそのまま行き過ぎる。最後に二人連れの盗賊が近づき、短刀を擬して若者の荷物を奪おうとするが、たまたま猟犬に嗅ぎつけられ、慌てふためいて逃げていく。そんな事実は露知らず、若者は眠りつづけるのであったー。
このように目と鼻の先で起きても、気づくこともましてかかわり合うこともなく過ぎ去る出来事は、われわれの周りにも数え切れないほどある。ホーソンは、それが人生だという。
だが、もし若者がもうすこし早く目覚めていたら、どうなっていたろうか。良し悪しは別にして、彼は千載一遇の瞬間に立ち会い、すばらしい人生の幕開けを経験したかもしれないし、逆にこの上もなく不幸な運命に見舞われていたかもしれない。
次は、そのような《奇跡の瞬間》に遭遇した妻の話である。
第一話 もどってきた自転車
もう二〇年近く前のことである。その日、急ぎの用があった妻は、駅まで自転車で出かけ、地下鉄に乗った。所用をすませて帰ってみると、停めておいたはずの自転車がない。記憶ちがいかと思って、別の場所をあちこち探してみても見つからない。急いだあまりカギをかけ忘れ、誰かに盗られたのだろうか。
この自転車、じつは次男が初月給の記念にと、贈ってくれたものであった。それだけに、妻にとって諦めきれない自転車なのである。
その日から、妻の自転車探しがはじまった。公設の自転車置き場はむろん、スーパー、コンビニ、本屋、パチンコ屋など、自転車のたむろする場所は隈なく捜索しまわった。だが、杳として所在不明、さすが根気強い妻も、一ヶ月もするとようやく思い切りがついたのか、自転車のことは話題にのぼらなくなった。
それからさらに一、二ヶ月たったある日、妻はわが家にあるもう一台の自転車に乗って、近くの神明社へ出かけた。お参りかたがた、たまっていた御札のたぐいを焼却してもらうためである。
地下鉄の高架沿いの道路と交わるところにさしかかったとき、目の前を一台の自転車が通りすぎようとしていた。直感が脳裏をよぎった。自転車を飛び降りた勢いで、思わず大声を出した。
「ちょっとすみませーん!」
男は《なに》?という顔で、そのままペダルを踏む足を止め、振り向いた。風采のあがらない中年男である。彼の跨いでいる自転車は、まぎれもなく、数ヶ月ぶりに対面する愛車であった。
「あのー、その自転車のことですけどー、それ、私のものではー」
「あー、これ?」
男は自転車から降りながら、悪びれた様子もなく平然と言ってのけた。
「ちょっと借りているだけだよ」
そして、さらにつけ加えた。
「悪かったね。あんたの家までもっていってあげるよ」
とんでもない! こんな人にわが家にまで来られたら、何をされるかわかったものではない。
「いいえ、結構です。そこに停めておいてください、あとで取りにきますからー」
男は自転車を置くと、そそくさと立ち去っていった。
そのときのことを思い出すと、妻はまるで白昼夢のなかの出来事のような気がするという。
もう一分、いや三〇秒でも遅かったり、早かったりしたならー、そしてなんの変哲もない自転車が自分のものだと直感しなかったならー、おそらく息子の贈り物はもどらなかったであろう。
まさに何百万分の一の《奇跡の確率》である。しかも、お宮参りの後ときては、妻は何やら因縁めいたものを感じているようだ。
それにしても、妻にはそんな小さな奇跡体験が何度も起きている。半生をともにした夫には、それがほとんどない。何故だろうか。その違いは《奇跡》なるものに気づくか気づかないか、つまり関心と注意力の有無の差にすぎないと、無神論者の夫は考えるのであるがー。
(平成18年7月)
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