名前に 込める思い 


いつの時代にも、流行の名前というものがある。

戦前の子沢山時代には、長男から「一郎」「次郎」「三郎」とつけ、末子にいくにつれ、もうこれで打ち止めという親の願望からか、「末吉」「捨吉」などの名が目立ってくる。女も同じで、「はつ」「はな」で始まった名前も次第に「すえ」「こずえ」となり、最後には私の義母の場合のように「とめ」となる。

戦時中は、《勝つ》にちなんだ名が圧倒的に多かった。妻の妹は「勝代」であり、遠縁にはズバリ「勝利」がいる。私の「邦男」という名も、親に聞いたことはないが推察するに、自国を意味する「邦」を冠することで、《日本国に役立つ男になれ》とでも願ったのであろう。

時代が移り、戦後は一時期、甥の「民則」とか、教え子に何人もいる「和子」などの名が流行り、新しい時代の息吹を感じさせたものだが、それも過ぎ去ると、次第に個人の生活を大事にする風潮が芽生えてきた。

ときあたかも自分が命名する番になって、私も産みの苦しみを味わうことになる。なやんだ揚げ句、長男には当時熱中していた囲碁にちなんで本因坊秀哉(しゅうさい)の名をもらい、「秀哉(ひでや)」と命名した。といっても別に碁打ちにするつもりなど毛頭なく、親の欲目でなにごとも衆に秀でてくれればよいとの思いであった。案の定、この子は碁石を握ったこともなく成長し、だからといってほかに秀でたかどうか疑わしいまま現在に至っている。

ところが、まっすぐ育った樹木を見て単純に「直樹」と名付けた二番目の子は、間違ったことだけはまだしでかしていない様子なので安心しているが、長男の名を横取りしたのだろうか、帰郷するたび碁盤を持ち出し、闘いをいどんでくる。

子供が名付け親の期待どおりに育ってくれることは、まずなさそうである。そのことに気づくと、私も子供の命名の由来を正直に答えるのが、気恥ずかしくなりだした。
そこで、尋ねられると

「湯川秀樹の《秀樹》と志賀直哉の《直哉》とを足して二で割り、それぞれにつけた」
と答えることにした。

「それは、理科系の頭と文科系の心の両方をもつようにという親心ですね」

「その通り、ギリシア神話の怪物キメラ【注】のようにですね。でも、名前の合成体は無理でした。息子たちは二体に分離し、一人は理科系で研究室勤め、一人は文科系で国際派―」

「なるほど」と妙に納得する相手に、「冗談、冗談。後知恵です。始めからわかっていたら、そんな名は付けませんよ」といったものである。

さて、名前というものは不思議なもの、長い間使っていると切っても切れない縁(えにし)を感じるようになる。考えてみれば、ペンをもつようになってから、自分の名前は何千回、いや何万回書いたことであろうか。名前はもはや単なる符丁ではなく、人格の一部となっている気がする。だから人に間違えられると、自分の存在を否定されたようで面白くない。

毎年、届く年賀状の中に、名前の書き間違いが必ず数枚はある。「邦雄」や「国男」もあるが、多いのは「邦夫」である。何十年来の知人や教え子の中にも平気で「邦夫」と書いてくるのがあって閉口している。そのうちに気づくだろうとそのままにしているが、なかなか改めてくれない。

もう大分前のことだが、前立腺手術後の快気祝いを兼ねて、ある教え子たちがクラス会を開いてくれたことがある。幹事の印刷してくれた名簿を見ると、「邦夫」とある。気の置けない会合であっただけに、思わず口がすべった。

「なるほど、《男》でなくなったということかな。しかし離婚でもして《夫》でなくなったら、今度はどう書かれるだろう?」

席上、冗談で言ったつもりが、幹事はえらく恐縮したようで、後日新しい名簿をつくりなおして送ってくれた。

その話を聞いた妻の曰く、
「いっそ改名もいいかもね。《雄》は使えないとしたら、再生を期して《生》はどうですか?」

《邦生》も悪くないな、と一瞬考えたが、やはり止めておこう。親からもらった名前はそう簡単に変えるものではない。

そういう妻は、戸籍名は「永子」だが、いつのころからか手紙などは「なが子」と平仮名書きにするようになった。八卦見によれば、《永》の字はあまりに良すぎてかえって亭主の運を食いつぶし、不幸を招くからというらしい。以来、妻はせっせと仮名書きにしているが、いまのところ亭主の運勢は一向に好転する気配はない。

【注】キメラ = ギリシア神話で、ライオンの頭、羊の体、蛇の尾をもつ怪物

            (平成18年3月)

              自分史目次へ