物のいのち                 安藤 邦男

リサイクルに関するある本を読んでいたら、次の一節に出くわした。

「《もったいない》という言葉の裏には、まだ使えるものは大切にしようとする節約精神がある」

一見、当然の文章のようである。しかしよく考えると、それだけの説明では何かしら欠けているものがあるようにも感じられる。著者はあまりに客観的な視点から見過ぎていないか。《もったいない》には、使えるか使えないかという功利的な判断とは別に、人間感情に深く根ざしたものがあるように思われる。それは、捨てるに捨てられないという、長年馴染んできたものへの断ちがたい愛着といってよい。

物を手放すということは、いうなれば愛する人と別れることと同じであろう。その別離の寂しさを味わいたくないばかりに、わたしも妻も物を捨てるということがなかなかできない。狭い部屋や押入がすぐガラクタで一杯になるゆえんである。

見わたせば、着もしない衣装、読みもしない古書、使いもしない食器、開くこともないアルバム、聞きもしないカセットテープに観もしないビデオテープなどなどー。整理すればずいぶんさっぱりするのにと思われるものが、ところ狭しと並んでいる。年末になるたびに、少しは身辺の整理・整頓をして新年を迎えたいと思うが、手つかずにして年を越すのが例年である。

だが、毎日使わなければならない器具類が故障したときは、話は別である。

先日、居間の天井に取り付けた照明灯の調子が悪くなった。八本ある蛍光ランプのうち四本がうるさく明滅しはじめたのである。もう寿命かと思って、八本すべて取りかえることにした。

取りつけが終わってスイッチを入れて見ると、どうしたことか、それまで調子の悪かった四本が点滅はおろか点灯すらしないのである。プラスチックのカバーをはずし、あちこちいじくり回してもうまくいかない。どうやら、照明灯の点灯装置そのものがいかれているようである。

この照明灯、家を新築したとき以来の代物で、かれこれ三十年をともに暮らしてきた。よくもまあ、持ってくれたものである。これまでも、もうそろそろ暇を出してもいいと思ったことが何度かあった。だが、いざその段になると、まだ捨てるのは《もったいない》が顔を出し、居間の天井に居座ってきた。

そんな前代の遺物のような照明灯でも、いまは命数が尽きようとしているのだから、もう諦めるしかあるまいと観念した途端、また例の《もったいない》が顔をもたげた。それに、せっかくランプを買い換えたのに、いまさら取りかえるのも業腹である。

《四本だけでも点いていれば、まあいいか》と、自分自身を納得させ、そのままにした。しかし、明るさが半減し、なんとなく部屋中に陰気な雰囲気がただようのである。

「あなた、やはり買い換えましょう」

とうとう妻が降参した。そこでやむなく電気店へ出かけ、一番大きくて明るい、十四畳用の照明灯を購入した。取り付けは工事の都合上、一週間後という。

さて、明日はいよいよ新しい電灯が入るというその日の夕方、居間のスイッチを入れると、なんと、取りかえる予定の照明灯が八本とも点灯したではないか。繰り返し点滅させたが、点けるたび《ほら、わたし大丈夫よ》とでも言いたげに、燦然と輝く。そして消えることも明滅することもなく、部屋いっぱいに光を流しつづける。

「まるで明日、取り替えられること知っていたみたいね」
と妻がいう。

なるほど、それはあたかも自分の運命を予知し、最後の力を振りしぼって命の花を咲かせているようであった。

その夜遅くまで、妻とわたしは居間を離れられず、三十年来の旧友である照明灯との別れを惜しんだ。七十余年を生きのびてきた己の姿をそこに重ね合わせながらー。

                           (平成18年1月)
  
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