信頼の犯す罪          安藤 邦男

もう二〇年以上も前になるだろうか、藤が丘近辺が今ほど開けていなかった頃のことである。季節は晩秋であったように記憶している。

その日は遅くまで勤務校に居残り、校門を出るころはもう日はとっぷり暮れていた。ラッシュアワーの地下鉄を降りていつもの道をわが家へ急いだ。

今はマンションが建っている場所に当時はパチンコ屋があって、その前はいつも人だかりがしていた。そこを通りかかったとき、向こう側からよろよろと、そのくせ足早に歩いてくる男がいるのに気づいた。危ない!と思って、左へ寄った。するとその男も、どういうわけか左の方へ身体を寄せてきて、あっというまもなく、双方の右肩がぶつかった。

「失礼!」
と反射的に声を出した。そのとき、相手は何かを地面に落としたような気もしたが、深く気にも留めず、そのまま行き過ぎた。

しばらく行くと、小公園がある。そこを近道して斜めに横切っていくと、ちょうど公園の真ん中辺の街灯の光があまり届かないあたりで、後ろから足音が近づいてきた。

「すみません。ちょっと待ってください」
と、男の声で呼び止められた。作業着をまとった五〇歳がらみの男であった。

「何ですか」
「さっき私にぶつかった人ですね」
「はい」
「ちょっとこれを見てほしいんですがー」

男はそういって、手にしたメガネを空に向けてかざした。濃い色眼鏡で、片方が粉みじんに割れているのが見て取れた。

「ぶつかった拍子に手にもっていたメガネを落とし、割れちゃいました。メガネがないと困るんですよ。目が悪いのでー」

見ると、男の右側のまぶたは、夜目にもそれと判るほどつぶれていた。

「ご免なさい。そんなこととは知らなかったのでー」

相手が視力障害者と知って、いっそう悪いことをしたという気持ちが募った。

「弁償させてください。駅前にメガネ屋がありますからそこへ行きましょう」

すると相手は、
「急いでいるんです。そんな暇ないです」

「じゃあ、どうしましょう」

「あるだけでいいです」

「えっ?」しばらく判らなかったが、ようやく相手の意図が読みとれた。財布を取りだして調べると、六千円しか無かった。

「これだけしか持っていないのですがー」

「いいですよ」

男は六千円を受け取り、闇の中へ消えた。

その夜、帰ってから妻に一部始終を話した。

「不注意の事故だからしょうがないわ。でも気をつけて下さいね。下手に因縁でもつけられたら、大変なことになっていたかもよ」

そのとき、妻はこの事件に何か不審な臭いを嗅ぎ取っていたかもしれなかった。しかしわたしとしては、六千円払ったことで自分の不注意の償いは十分にすんだと、むしろ一種の自己満足さえ感じていた。

その二、三日後である。夕刊の紙面を三段抜きで飾ったニュースがあった。

《名東区に当たり屋出没! ご用心!》

見出しを見て「あっ」と思った。記事に目を通しながら「まさか」と思った。読み終わって「やられた」とも思った。

記事によれば、名東区では最近当たり屋事件が続発しているという。その手口は、手にメガネを持った当たり屋が歩道の通行人に突き当たり、メガネが割れたと称して金品を巻き上げるというものであった。くやしい!そんな騙しのテクニックにうかうか引っかかるとはー。あの日の自己満足は一転、自己嫌悪に変わった。

だが、しばらくすると疑念が湧いた。あの男は本当に新聞の報ずる当たり屋だったろうか。そういえば、新聞には目が不自由とは書かれていなかった。ひょっとすると本当に目の悪い善意の人であったかもしれないのだ。その方がわたしとしては救われる。

しかしすぐに、そんなはずはないと思い直した。善意の人があのような行動を取るだろうか。考えてみれば妙な点がいくつかあった。避けようとする方向へ相手が寄ってきたのは、故意としか考えられないし、目の悪い人がメガネを外しているなんてことも不自然だ。おまけに、人目に付かない暗い公園まで後を追いかけてきて、しかもメガネの修理を断り、現金を要求するなんてことはなおさらおかしい。

やはりその道のプロだ。目の傷害などは、セロテープでも貼り付ければ、簡単にできる偽装である。だとすれば、やはりわたしは当たり屋の被害者なのだ。

被害者? いや、待てよー、このとき別の考えがひらめいたー。ひょっとするとわたしは被害者ではなくて加害者ではないのか。相手を信用し金銭を渡したことで、わたしは当たり屋に詐欺という罪を犯させることになったのだからー。あのとき、疑惑を察知し、決然として断わっていたら、あの男は詐欺罪を重ねなくてよかったのである。

信頼という高貴な行為で、人はかえって罪を犯すことになるー、これは現代社会のもつ病理だろうか、それとも陥穽だろうか。あの事件を思い出すたびに、胸に去来する疑問である。

           (平成17年11月)

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