わが人生の歩み(7)

ー 高校英語講師に応募する ー
        安藤 邦男

昭和二十五年四月、名古屋大学文学部英文科に入学した。鶴舞公園の公会堂で行われた入学式では、故勝沼精蔵総長の祝辞や代表者の宣誓があった。聞きながら、自堕落に送った名経専での三年間を思い出し、その轍は二度と踏むまいと心に誓っていた。

旧帝国大学の伝統を引き継ぐ名古屋大学は、その年、旧制度のまま文学部を創設し、三年目になっていた。翌二十六年から新制大学に切り替わる一年前であり、われわれは旧制度最後の大学生として入学したのである。

募集要項を見ると、文学部英文科の入試科目は英語と論文だけとあった。前年末、就職試験に失敗し、急遽進学に転向したわたしには、これは有り難かった。これなら、自分にも合格できるかもしれないと思って、受験することに決めた。だが、英語は自信があっても論文は不安である。そこで、とにかく受験準備をしなくてはと、図書館通いをはじめた。論文といっても、各論ではなく総論であろうと見当をつけ、二〇世紀文学、英文学と日本文学、文学と人生、文学と芸術、文学と歴史などのテーマを自分で立て、構想をめぐらせながら勉強した。運よく、出題されたのは《文学と人生》。山はまんまと当たった。

講義が始まった。当時、名古屋大学の文学部は、名古屋城の東にあった旧六連隊の兵舎をそのまま転用し、法学部と同居していた。現在、そこには愛知県体育館が建てられ、毎年大相撲名古屋場所が行われている。

英文科の主任教授は、卒業論文《ウォールター・ペイター》がそのまま岩波書店から出版されたという英文学者の工藤好美、助教授は後にN大学の主任教授として中部英文学会の総帥となった加藤龍太郎、哲学科には第一高等学校(後の東大教養学部)から転任してきた唯物弁証法学者でヒューマニストの真下信一、国文科には記紀・万葉研究の第一人者で「吉野の鮎」を書いた高木市之助、仏文科には新村出を父に持ちフランス帰りの新進学者の新村猛など、そうそうたる顔ぶれが揃っていた。

はじめは気に入った講義を探しながらいろいろな教室を渡り歩いたが、少し馴れてくるにつれて、原書を読む授業以外はできるだけカットして時間的余裕をつくった。ほかの学生たちも大同小異で、二、三ヶ月経つころにはどの講義の出席者も在籍学生の半数か三分の一ぐらいになっていた。旧制の高校や専門学校と違って、ここでは出席を一切取らず、年度末にレポートを書いて出せば単位がもらえるという講義が多かったからである。ほかの科の噂では、卒業式で初めて顔を見せたという豪傑もいたという。名経専から一緒に社会学科に入ったO君などは、C新聞社の記者をしながら、一度も出席しない講義のいくつかをレポート提出だけで単位をとっていた。もっともさすがの彼も仕事が忙しいといって、二年なかばで中途退学をしたがー。

いずれにしても、まことにのんびりとした学園生活であった。雑草の生い茂る《兵どもが夢の跡》の校庭に寝そべって、友人たちと文学や哲学を語り合ったものであった。

そのころの思い出としては、夏休み、小牧飛行場のアメリカ軍基地のPX(酒保)でアルバイトをしたことである。毎日、夕方六時から十一時までの皿洗いなどの仕事はきつく、半月ももたないうちに過労でダウンした。近所の医院で見てもらうと肋膜炎だという。約一ヵ月寝込んだ。

年が明けた一月か二月であったと思う。学生掲示板にアルバイト募集のビラが貼られた。読むと、N高校で二名の臨時講師を募集している。資格として高校教員免許を持っていることが条件であった。

早速、申し込んだ。当時、名経専を卒業すると、高等学校二級教員免状がもらえたのである。ほかに希望者が何人かいたようであったが、免許状を持ち、語学試験にも合格していたK君とわたしが選ばれた。

語学試験というのは新入生の語学力(英・仏・独など)を試すもので、合格すれば、一回生にとって必須である語学の二単位は取らなくてもよいという特典があった。わたしの知るかぎり、合格したものは三人。N英語専門学校から来たK君、Y君、それにわたしであった。経専時代には授業にも、ましてその成果にも、満足を味わったことのないわたしは、このときようやく自分の居場所を発見できた思いであった。

こうして、二人はまだ風の肌寒い三月のある午後、N高校を訪れたのである。

初対面の校長は、奇しくも経専時代に机をならべていた友人A君の親父さんであった。そんなこともあって話がはずみ、一緒に出かけたK君とともに、すぐさま採用と決まった。勤務条件は週一〇時間、三日出校せよ、というものであった。渡された教科書のズシリとした感触に、教師としての責任の重さを感じていた。

帰途、暮れそめた町並みをK君と語り合いながら歩いた。心配の種は共通している。まだ入学して一年経つか経たないかの新米大学生に、高校生を教えることが果たしてできるかどうかである。当時、教育実習という制度はなく、多くの大学や高専は実習経験のないままに単位さえとれば教職免許を与えていた。わたしにも、近所の中学生に英語を教えた経験は一度だけあったが、教壇に立って高校生に教えるという経験は初めてのことであった。

いよいよ四月からは教壇に立たねばならないと思うと、われ知らず身体が熱くなり、冷たいはずの三月の夜風がむしろ心地よく感じられた。乗りかかった船、腹を括ってやるしかないと、二人で励まし合ったものである。しかしこのとき、すでにわたしは自分の一生を運命づける道を歩き始めていたことにまだ気づいていなかった。

                (平成17年12月)

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