わが人生の歩み(5) 

  ー 図書館に入り浸る ー       安藤 邦男
                                                                
昭和二十二年四月、名経専(名古屋経済専門学校)に入学。だが正直にいって、ここでの想い出は少ない。この学校には馴染めないまま、二十五年三月に卒業している。

なぜ名経専か、と問われれば、そこしか行くところがなかったとしか言いようがない。すでに赤緑色弱で、理科系は断念せざるを得なかったし、その当時、中学を終えてから進学できる文科系の学校は、あまりに数が少なすぎた。まだ戦時中の理科系優遇政策の影響が残っていて、愛知県内の国公立文科系の学校は四つしかなかった。名経専のほか、八高(第八高等学校)、岡崎高師(岡崎高等師範学校)、一師(第一師範学校)である。私学では、その前年開校した南山外国語専門学校があり、とりあえずそこはスベリ止めとして確保した。だが、東京の有名私学に行くには、家庭の経済力が許さなかったし、学校の教師に激しい不信感を抱いているわたしには、岡崎高師や一師は論外であった。だから、八高を失敗したからには、名経専しか残されていなかったのである。

それでも、最初の一年は新しい環境のせいもあって、学園生活には満足した。とくに、中学と違って、教授たちが学生を一人前の紳士として扱ってくれたことが嬉しかった。英文講読、古典、倫理などの一般教養科目に興味をもった。だが二年生になって専門教科が始まると、講義が次第に面白くなくなっていった。とくに、経済原論や経営学概論はまだしも、会計、簿記、統計などの技術科目はまことに無味乾燥、この学校へ来たことをあらためて後悔しはじめていた。

一方、学友たちの多くは未来の経営者かエリートサラリーマンを目指して入学してきた者で、学校の与える授業に満足し、それなりに勉強にはげんでいた。そんな彼らの屈託のない明るさに溶け込むことができず、しだいに彼らからも離れていった。

きらいな講義はよくサボり、図書館に入りびたった。読書は自分の目を新しい世界へとみちびいてくれた。青春の三大バイブルといわれた「三太郎の日記」「善の研究」「出家とその弟子」などをはじめ、「若きヴェルテルの悩み」など、若者の悩みをあつかった文学書や思想書を読みあさった。私小説では、白樺派などの調和型より葛西善蔵などの破滅型の作家たちに惹かれた。当時の流行作家では、徹底的に堕落することにしか再生の道は無いと説いた坂口安吾の「堕落論」にのめり込み、挫折体験を生々しくつづった太宰治の「人間失格」に感動し、その主人公に自分を擬したりした。

昭和二十三年の初夏、その太宰治が玉川上水での入水心中をしたとき、わたしは同じ太宰ファンであった友人と一晩飲み明かした。彼の死はひとごとではなかった。そして、わたしはますます乱れた生活を送るようになっていた。昼は、アルバイトで商社に雇われて機材の運び屋などをした。夜は、学生生活に不満をもつ不良学生たちの寮や下宿に泊まり込み、人生論や女性論を戦わせたりした。アルバイトでせっかく稼いだ金は、彼らと飲み明かす酒代か、または屋台であおったドブロク代に消えた。

そのころの友人のひとりに、中学時代からのクラスメートがいた。別の学校で教師になる道を進んでいた彼とは、ときどき飲み屋で会って旧交を温める仲であった。彼は幼年学校から復員してきた元軍国少年であったが、酔うと口癖の一つで、

「一度は天皇に命を預けた者が、どうしてこんないい加減な戦後を生きていけるか」

と、くだを巻いた。多感な秀才にとっては、敗戦の体験はあまりに大きかったのであろう。ちなみに、彼は在学中の学校で学業を放棄して遊蕩三昧、ついには一年留年したという経歴の持ち主であった。同じ人間不信を共有しながらも、一年を棒に振るほどに「堕落論」に徹しきれなかったわたしは、ただ彼を羨望の目で見るしかなかった。

              (平成17年9月)

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