わが人生の歩み(3)
  ― くすぶる教師不信 ―
      安藤 邦男
       

昭和二十一年は、昭和天皇の人間宣言から始まった。この年、四月には婦人参政権が認められ、十一月には新憲法が発布されている。世は挙げて民主主義の時代を謳歌していた。

学校も次第に落ち着きを取りもどしつつあった。導入された民主主義教育は占領軍からの指示にもとづくものであったにせよ、教師と生徒の《相互信頼》や《話し合い》などの言葉が盛んに教師たちの口にのぼった。しかし、それを説く教師の態度には付け焼き刃のぎこちなさが目立ち、むしろ往年の権威をいかに維持するかに腐心しているような気配さえ見受けられた。

一学期のある日、クラスで討論会が開かれた。論題はたしか《教師と生徒の関係》についてだったように思う。討論会といっても、担任の先生が司会をし、順番に意見を述べるだけのものであったが、初めて与えられた発言の機会にクラスのものはみな緊張し、興奮した。わたしはそこで初めて、おそるおそる教師批判―というよりは教師への注文―を出した。

「先生は生徒に、これからは何でも質問したり相談したりせよと言われますが、まだ先生と生徒の間には壁や溝があって、なかなか近づきがたいのです。なかには殴る先生もいます。この前、ぼくも殴られました」

何人かの笑い声が聞こえた。

「まず、先生の方からそんな態度を改め、生徒に近づき易い関係をつくってください。」

「もっと言え」と、声援が飛んだ。

つい一ヶ月ほど前のこと、わたしはある国語教師にひどく殴られた。その日、校門を入るとちょうど鐘が鳴っていて、生徒たちはぞろぞろと校庭に集まっている。朝礼が始まろうとしていた。カバンを教室に置きにいこうとして下駄箱へ急いだ。靴を脱ごうとしたが、あいにく軍隊払い下げの半長靴を履いていて、紐を解かないと簡単には脱げない。そんなことをしていたら点呼に間に合わない。ままよ、とばかり靴履きのまま廊下を教室まで走って往復し、運動場にいるクラスの最後列に並んだ。やっと間に合った。だが、ひと安心は束の間であった。

「お前だろう! さっきその靴で廊下を走ったのはー」

いつの間にか、見まわりの週番教師が目の前にいた。
「ハイ」
「馬鹿もん!」
いきなり平手打ちをくらい、目がくらんだ。


この教師は、戦時中は剣道教師を兼ねていたが、戦後はもっぱら国語だけを教えていた。目の鋭い、見るからに陰険そうな顔つきをし、いつまでもネチネチと皮肉と嫌味を交えながら説教する様は、まるでネズミをいたぶるネコを思わせた。

民主化されたはずの学校には、この教師のように、いまだに戦時中の暴力的気質を残している者もいた。こんな教師よりスパルタ教育をもって鳴らした元配属将校のほうがまだましではないかと思うと、いまは事務室でひっそりと書類の整理に当たっているそのM老中尉のことが偲ばれた。


M中尉に初めて出会ったのは、一年生の夏の水泳の時間であった。子供のころから家の近くを流れる用水でよく水遊びをしたお陰で、泳ぎはかなりできたからよかったが、泳ぎの下手な者や金槌はそれこそ悲劇であった。泳ぎ方の指導など、あったものではない。水の中に放りこんで、犬かきでも何でもいいからとにかく《浮いていることを覚えろ》式の、精神主義丸出しの指導法であった。途中、足で立ったり、側壁に掴まったりしたら、M中尉が飛んできて、手にもつ竹刀がうなった。この鬼中尉恐さにみな必死に頑張ったせいで、その夏の終わりには多くの者が八百メートルを完泳できた。

さらに、三年生になると軍事教練の時間が待っていた。鬼中尉のしごきのすごさは水泳の比ではなかった。生徒が鼻血を出すのは日常茶飯事、あるものは銃剣道の時間に木銃で突き倒され人事不省におちいったし、わたしも一度、《気を付け》の姿勢が悪いといって手の甲をサーベルで殴られ、一週間腫れが引かなかったことがある。しかし不思議なことに、この中尉にはどこか憎めないところがあって、体罰の激しさにもかかわらず、恨みに思う者は少なかった。戦後、前非を悔いてか、生徒の前には一切姿を見せなかったその態度も潔く、むしろすがすがしくさえあった。

クラス討論会のあと、担任はわたしを教室に残した。
「きみは先生たちを恨んでいるかね」
担任の声はやさしかった。このG先生は日本史を教えていたが、歴史教師には珍しく訓話や説教の少ない人であった。その紳士的態度は戦前も戦後も変わることなく、それだけに生徒たちからは信頼を得ていたのである。

「いや、恨んでいません。ただ先生方のなかには、戦前は戦争のためといい、戦後は平和が大切と説かれ、その言葉の裏で暴力を振るう人もいますー矛盾していませんか」

敗戦直後は、戦時中に暴力的指導を行った教師たちに謝って欲しいと思ったものだが、いまはもう過去は過去として不問に付すべきだという気持ちになっていた。ただ、許せないのは平和主義を唱えながら、暴力に訴える教師の存在であった。

G先生は黙って聞いていたが、やがて一言、
「ところで勉強はしているかね」といった。

突如、わたしはG先生がわたしを残した真意を悟った。―そうだ、こんなことはしておれない。くすぶる教師不信のために勉強に身が入らなかったら、損をするのは自分だけだ―。

気がつけば、受験が目前に迫っていたのである。

              (平成17年5月)

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