わが人生の歩み(2)

    ― 荒川惣兵衛先生のこと ―
             安藤 邦男

昭和二十年から二十一年にかけて、物資や食料の不足は極限に達し、米よこせデモ、闇屋の横行など、世間は物情騒然としていた。新聞は、特攻帰りの青年たちの非行や犯罪を報じていた。学校も荒れ、教師の権威は地に落ちていた。明日にでも革命が起こるかもしれぬと、扇動する政党もあった。

世の中の混乱もさることながら、教育現場で与えられる新しい知識や思想も混沌をきわめ、わたしの中の意識の坩堝(るつぼ)は、それに反応する複雑な感情で煮えたぎっていた。

つい数ヶ月前まで軍国主義思想を叩き込んだ教師が、いまは民主主義を唱えている。その、木に竹を接いだ教師の態度はまことにウソっぽく、それだけに初めは滑稽感すら与えたが、しかしそれは次第に抜きがたい不信感に変わっていった。

《何ということだ。国のために殉じよと、何人もの生徒を陸士や予科練へ送ったのは、昨日のことではなかったか。その舌の根も乾かぬうちに、前言をひるがえすとはー》

教師たちが恥じ入る風情もなく、べんべんと生きながらえていること自体が、わたしには解せなかったし、許せなかった。せめて前非を悔いて潔く職を辞する教師の一人ぐらいはいてもいいのではないかと思った。

だが、いきり立つ思いは人を盲目にするものである。実はこのとき、一人の誠実な教師がひそかに校門を去っていたことをわたしは知らなかった。

その人の名は荒川惣兵衛。あの「角川外来語辞典」の著者である。荒川さんは敗戦の翌月の九月、生徒たちには何事も告げず、われわれの前から姿を消した。その月は、校長を始め何人かの教師が転任したが、わたしたちはその中の一人ぐらいにしか考えていなかった。しかし、荒川さんは自分の生き方を精算するかのように、それまで執っていた教鞭を投げ捨て、慣れないクワを手に農耕作業で糊口をしのぐかたわら、外来語の研究を再開していたのであった。

そのことを知らされたのは何年も後であったが、そのとき《やっぱり、そうだったのか》と、一種の感慨を込めてわたしは中学時代を回想したものであった。

敗戦の一年前、中学三年のわれわれは勤労動員の合間を縫っては学校に帰り、変則の授業を受けていた。ときどき教わった合併教室に、恐ろしく毛色の変わった英語教師がいた。騒ぐとすぐに鞭が飛んできた。それが若き日の荒川さんであった。

「お前たち、英語をバカにしちゃいかんぞ。国は英語を使わんように指導しとるが、大間違いだ。そんなことでこの戦争に勝てるはずはない。」

「日本は負ける」と断言するこの奇妙な英語教師の授業を、国粋主義に固まり、英語嫌いの生徒たちが穏和しく聞くはずはない。教室はますます騒がしくなるだけである。「惣兵衛はスパイだ」と陰口を叩くものもいた。

そのころ、英語は敵性語として排斥され、多くの英語教師はにわか仕立ての国語や数学の教師になっていたが、荒川さんは数少ない英語教師として初志を翻さなかった。
ある日、見かねたクラス担任が注意した。

「君たちは荒川先生の授業に騒ぐらしいが、もっと真面目に授業を受けろ。荒川先生は外来語の権威者で、中学生にはもったいないほどエライ先生なんだからー。」
昭和十六年、荒川さんは富山房から「外来語辞典」を出版し、当時の英語学会の権威である「岡倉由三郎賞」をもらっている。後年、有名な「角川外来語辞典」として結実した辞典の前身である。

それに先立つこと十年以上の昭和三年、荒川さんは早くも処女作「日本語になった英語」を出版している。以来、外来語を集めることでヨーロッパ文化を深く研究してきたこの学究の徒には、太平洋戦争の無謀とその行く末がハッキリと見えていたに違いない。

時は移り平成七年、荒川さんは九十六歳で天寿を全うした。その訃報に接したとき心に浮かんだことは、あの敗戦直後の荒川さんの進退の見事さを知っていたら、わたしを苦しめ、わたしの人生を大きく左右したあの教師不信と虚無主義を、ひょっとすると経験せずにすんだかもしれないということであった。そうすれば、その後のわたしの生き方も別のものになっていたかも知れないのである。

          (平成17年4月)

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