人生を囲碁にたとえれば ー囲碁人生論ー 安藤 邦男
一年ほど前のこと、所属するある囲碁会の懇親会の席上で、議論が持ちあがったことがある。ある人が「人生は囲碁に似ている」といい、出席者の多くがそれに同調した。ところが酒席には、むやみとからむ人間がいるものである。その男、「いや、そうではない。囲碁のほうが人生に似ている」と主張してゆずらない。両派に分かれて侃々諤々、議論は果てしなく続いた。結局、「どちらにせよ、同じことではないか。囲碁と人生の間には大きな類似関係があることは確かだ」ということで決着がついた。
そのとき話されたいくつかの論点に、日ごろ自分なりに考えていることをつけ加えて、まとめてみることにした。題して「囲碁人生論」である。
テレビの小中学生全国囲碁選手権戦を見ていつも感じることだが、盤面から見る彼らの緒戦の戦いぶりは専門家のそれと見分けがつかないほど立派である。解説する棋士も、非の打ちようがないと褒めていた。
しかし、それにはわけがある。というのは、一局の囲碁の打ち始めは専門用語で「序盤」と呼ぶが、ここでは定石の力が大いに物をいう。「定石」をしっかり習得しておけば、序盤に関するかぎりある程度までは立派な碁が打てる。だから、定石とは人生における「読み、書き、そろばん」のようなものだといえる。「少年期」にこの基礎的能力を十分身につけておけば、その後の教育の場で大きな成果を収めことができるし、社会に出てからもそれなりに役立つ。
ところが、「中盤」になると、事情は違ってくる。ここでは、定石はもはや無力である。地を取るか、勢力を張るか、戦いを挑むか、妥協するか、すべては緻密な読みの力と、全局的バランス感覚と、それを実行する決断力とにかかっている。ここで、棋力の差が歴然と現れてくる。人生でいうならば、自立する「青年期」から働きざかりの「壮年期」にかけての時期にあたる。この時期、就職、結婚など、いくつかの関門をくぐりぬけると、人は会社や家族のために身を粉にして働く企業戦士になる。そこで物をいうのは、専門的知識・技能、先を読む力、仲間との協調性、そしてそれらを可能にする体力と決断力である。
さて、中盤が過ぎると、いよいよ「終盤」になり、「ヨセ」の段階に入る。戦いは終わり、すでに大勢は決している。ここでは相手の地を少しでも減らし、自分の地をわずかでも広げるという、地味な陣取り合戦がつづく。いうまでもなく、ここは人生でいう「高年期」である。そろそろ引退を考える時期か、すでに引退して余生を楽しんでいるころである。いまはただ、これまで築いてきた己が城を現状のまま維持し、それを子孫や後輩に伝える仕事が残されているだけである。
こうして眺めてくると、囲碁においても、人生においても、いちばん重きをなすのは中盤であり、青・壮年期であることがわかる。人生の青・壮年期は、時間的にも一生のうちの大半を占めるし、ここでの生き方如何がその後の人生の幸不幸の決め手となる。同じように囲碁でも、中盤戦は勝敗の天王山をなすところであり、それだけに碁を打つ楽しみ、醍醐味はここを措いてはほかにない。
中盤はまた、人の性格がもっとも現れるところである。人は戦いのとき、本心を露わにするもの。性格だけでなく、好き嫌い、価値観、主義主張など、いうなればその人の個性が如実に顕れる。多彩な個性が限られた盤面に凝縮して表現されるという意味で、一局の囲碁はまさにひとつの芸術作品と呼ぶにふさわしい。
芸術作品といえば、文芸の歴史に発展史観なるものがある。古典主義から浪漫主義が生まれ、やがてそれは現実主義に移行するという図式である。ここで自分の囲碁の経歴をふり返ってみると、あまりにもこの図式どおりであることに気づく。文芸の発展段階説は、人間の成長段階説にも当てはまることを知って驚いている。
すなわち、20代のころ、わたしは「囲碁は調和」であると説く呉清源九段や「囲碁は美学」だと主張する大竹英雄九段などに惹かれ、彼らの棋譜を並べて勉強したものである。その形式美を愛する棋風は、文芸でいう古典派に通じるものがある。
一方、形式や実利にとらわれず、ひろく中原を目指す武宮正樹九段や苑田勇一九段の「宇宙流」、それにひと頃の藤沢秀行九段の豪放な棋風などは、夢を求めるロマン派の名に値する。働き盛り、打ち盛りの壮年期、わたしはこのタイプの碁に熱中した。
この流儀に対照的なのが、地に辛く、実利を追うタイプの石田芳夫九段や趙治勲九段である。その堅実性を考えれば、現実派と呼ぶのが相応しい。この人たちが本領を発揮するのは、中盤よりむしろ終盤の「ヨセ」である。「ヨセ」では、人は多少ともレアリストになるものである。人生の終盤で、わたしはいま自分がこの派に近いことを痛感している。
一局の碁と人の一生はかくも似ている。しかし、そこには大きな相違もある。囲碁は、一目の違いで勝敗を決する厳しい戦いであり、ときには試合半ばの「中押し」で勝敗を決することもある。しかし、人生はもっと大らかで、ゆったりしている。それは1目や2目の違いにはこだわらないし、10目や20目の差があっても勝ち負けを云々することはない。目の数の価値は人によってそれぞれ違う。たとえ1目の地しかないときでも、相手の10目の地に匹敵することもある。「長者の万灯より貧者の一灯」である。
わたしはいま、高年期に入って、これまで打ってきた人生の囲碁を目算している。勝ち負けはもはやどうでもよい。途中で投げるほどの大敗を喫することもなく、これまで打ってこられた仕合わせを味わっている。そして、終局の前に何とか自分の棋譜を残したいと思っている。
人生の棋譜とは、いうまでもなく自分史である。 (平成16年10月21日)