「待った」の報いー囲碁の思い出ー                安藤 邦男

父親も碁が好きで、田舎初段を自認していた。その頃の田舎初段は、いまでいう3段ぐらいの力はあったと思う。中学を出て、専門学校に入ったころから、父とはよく碁を打った。最初のうちは※井目を置いていたが、2、3年経つと追いつき、大学を卒業するころになると※互先になった。負かされて「お前も強くなったな」と、嬉しそうに言う父の顔がいまでも目に浮かぶ。

   ※井目(せいもく・碁盤の目の上の九つの黒点。下手はあらかじめここに石を置いて始める)

   ※互先(たがいせん・技量の互角の者同士が交互に先番で打つこと)

急速に強くなった理由としては、むろん碁に熱中したこともあるが、もう一つには碁の打ち方にあったと思う。私はしょっちゅう「待った」をした。父はいやな顔もせずに、それを許してくれた。「待った」は建前では絶対してはいけないマナーであるが、親しい友人や肉親の間では許されてもいい、というのが私の考えである。それは、「読み」の力をつけるための一番の秘訣だと思うからである。

専門家は打ち終わった後、必ず並べ直して指し手の検討をするが、そんなことをする素人はまずいない。打ちっ放しにして、また次を打つ。何が好手で何が悪手であったかなど、打ち終わったとたんに忘れてしまう。これでは進歩するわけがない。ところが「待った」は、打った直後に気づいた悪手を取り消し、あらためてその局面での最善の手を模索することである。これはあきらかにルール違反であるが、大局的に見ればすぐれた悪手矯正法といえる。専門家に打ってもらう指導碁は、上達にはすこぶる有効である。しかしそんな機会は少ないので、「待った」によって自らの着手の非をとがめ、自ら最善の手を再考する方が、私には役立った。

ただ、一方ではデメリットもある。間違えたら「待った」をすればいいという安易さから、着手に慎重さが失われ、どうしても「早打ち」になってしまうのである。これが、私の囲碁につきもののミスやポカを生む素地となったのかもしれない。

そこで、思い出すことがある。ある学区のコミュニティーセンターに囲碁サークルがあり、2年ほど前、知り合いに誘われて加入した。毎週土曜日が囲碁の日であり、そのほか年に2回、メンバー総当たりの大会があった。当日は昼食を挟んで勝ち抜き戦が行われ、優勝者には賞金が出る。

その年の松の内に、恒例の大会があった。2回戦で某六段と打つことになった。五段の私は黒をもって、終盤になり、圧倒的に黒有利、相手の投げるのを待っていた。彼とは今まで何回か打っているが、殆ど負けたことがなかった。最近は、私との対局を避けている様子が見て取れたが、しかし公式戦ともなれば、打たないわけに行かず、久しぶりの対局となった。

さて、一局の終盤、※コウ争いが続いていた。相手がコウを立てる番である。投げる気配もなく長考を重ねる彼にいらいらしながら、隣の対局を横目で眺めていると、右手が動いた。相手がどこへ打とうがここはこの一手とかねて考えていた私は石音高く、思い切ってコウを解消した。

   ※コウ争い(一目を双方で交互に取り返せる形ができたとき、取られたあと、すぐ取り返してはならないルール。他の急所に打って(「劫だて」という)、相手がそれに応ずれば、そのあとで一目を取り返すこと)

依然として、相手は押し黙ったまま考え込んでいる。また隣の対局に目をやっていると、10分ほど経ったであろうか、相手はやおら口を開いた。

「私はまだやっていませんよ。あなたは二手打ちましたね」

寝耳に水とはこのことである。

「え! あなた、ここへ打ったんじゃないですか?」

といって、盤上をよく見据えると、なんと相手が打ったと思われた箇所に石がないではないか! 打ったと思ったのは錯覚であった。

何やら右手を盤上にもっていったように思われたが、実は、このとき相手は置き石をなぶっただけであった。並の碁打ちなら、即座に「まだ打ってない」といって注意を促すか、制止するかである。ところがこの意地悪居士は何もしないし、何もいわない。失策が取り返しのつかないほど確実さを増すまで時間を稼いでいたのか。

続けて、勝ち誇ったような大声がひびいた。

「幹事さん。二手打ちは『ちょんぼ』で、負けでしょう。」

幹事「・・・うん、まあそうですね」

相手「じゃあ、わたしの勝ちですね。」

幹事「・・・そういうことになりますね」

見事に負けた。それにしても、敵はなんと用意周到なことか。なるほど、この巧妙な決着の仕方を考えるには、10分はかかるわけだ。思えば、石をなぶったのも相手の錯誤を引き出すための陽動作戦かもしれなかった。

相手は私に勝って優勝し、賞金を獲得した。悔しいというより、そんな碁打ちがいるということのほうがショックであった。人間、賞金が絡むと汚くなるものか。それとも、鬱憤の積み重ねが人格を変えるのか。

家に帰ってから、妻に一部始終を話した。妻のいわく、

「慎重でないあなたのほうが悪いに決まっているわ。対局中に横を向いていたなんて、まったく言語道断よ」

妻は私のマナーをなじった。が、私は私で別のことを考えていた。これは、「待った」という禁じ手を犯して腕を上げた私に、囲碁の神様が下した鉄槌かもしれないとー。

以来、その碁会には出席していない。(平成16年9月記)

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