飼い犬はどっち?ー「婦唱夫随」の45年ー     安藤 邦男


妻と暮らして足かけ45年になるが、よくまあ持ったものだと思う。それというのも、お互い性格が正反対なのだ。私の血液型はA型、そのせいかどうかは知らないが、どちらかといえば几帳面で慎重型。彼女はO型、小事にこだわらず楽天的。私は孤独を愛し、非行動型だが、彼女はおしゃべりで、社交的。典型的な内向型と外向型の組み合わせである。

さて、ここまではよくあるパタンだが、問題はこれからである。妻は、外向型に輪をかけて、向こう見ずというべきか、お人好しというべきか、人の疝気を「気に病む」どころか、「背負い込む」ほどに、他人のことが放っておけない気質。よくいえば世話好きだが、悪くいえばお節介そのもの。世の中にはお節介を好まぬ人も多い。恩を仇で返されることもあった。

家にあっては、子どもたちが幼かったころ、食事を残そうものなら口をこじ開けてでも詰めこむほどの過保護ぶり。彼らが巣立ったあと、はけ口を失った母性愛の向かう先は推して知るべし、そこに哀れな夫が一人いたという次第。

とはいえ、いずこの夫も子どもほどには従順でないのが妻の悩み、夫婦の角逐が生まれるゆえんである。例えば食事どき、なんとか朝食抜きで出勤しようとする夫に、どうしても食べさせようとする妻。夕食ともなれば、ビール一本では足らない夫に、1本以上は絶対に飲ませようとしない妻。また、暇があれば読書やパソコンに明け暮れる夫に、あれこれ理由をつけて買い物や散歩に連れ出そうとする妻―と、まあかくのごとく、悶着の種は尽きないのであるが、攻防の山場で折れるのは決まってかく言う夫であった。

のみならず、それで満足する妻ではなかった。あれは確か、子供たちが家を出たころからだと思うが、夫の出勤にはかならず妻が駅まで付き添うようになった。帰宅時も同じ伝で、カエルコールをすると、食事の支度で手の放せないはずのときでさえ、10回に9回までは途中まで迎えに来た。

これが近所の評判にならないはずはないのだが、他人の思惑や世間体を気にするような手弱女ではない。

この習慣、仕事を辞めてからも同じで、近所に散歩に出かければ、ひとりでは危ないといって付き添ってくるし、所用で外出するときなども、やはり駅まで見送りに来る。

「わたし、戌年生まれだからイヌよ。どこへでもいっしょに行くの」

「ギネスブックに載せてもらおうか」

冗談を交わしながら、歩いたものだ。

四六時中、そんなに付きまとわれては息が詰まるのではないかと心配する向きもあるが、それはまったくの杞憂。早い話が、愛犬に付きまとわれて、息の詰まる人間はいないはずである。それに、女の妻とは反対に、生来、男というものは他人の話をあまり身を入れて聞かないようにできている。

「あなた、聞いているの?」

と、むかしはよくなじられたものだが、いまでは積年の習慣が条件反射となって、新聞やテレビに目をやりながらも、相槌を打つことだけは忘れない。

もし、彼女に面と向き合い、おしゃべりにまともに付き合っていたとしたら、とうに身が持たなかったろうと思う。

最近、妻は昔ほど、夫べったりでなくなった。ボランティアやサークル活動でけっこう忙しく、外出も多い。夫たる私も、むろん自分のしたいことで寧日がない。幸せな日々が続いているが、少しばかり淋しくもある。居るべき場所に妻が居ないという欠落感―、それが心に空洞をつくりだすのである。

そして、「わたしはイヌよ」という彼女の言葉を思い出す。しかしひょっとすると、ひたすら妻の帰りを待つこの私こそ、彼女の飼いイヌかもしれないと考えたりしている。(平成16年7月)


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