前立腺ガン闘病記

                          安藤 邦男
1 告知される

「どなたかご家族の方は来ておられますか?」

診察室に入ると、H医師はいきなりそういった。悪い予感が頭をかすめた。何をいわれても驚くまいとする防御本能からだろうか、思わず身体に力が入った。

わたしは廊下に待っていた妻を呼んで、一緒に担当医のH医師の前に腰をおろした。

「あなたは告知を希望されていましたね」

耳もとの医師の声は、どこか遠くからのように聞こえた。

「はい、そうです」

「では申し上げます。ガン細胞が見つかりました」

覚悟はしていたものの、スッと血の気が引くのを感じた。もっとも、そのひと言はまだ比較的冷静に聞くことができた。しかし、つづけて医師の説明が始まったときはもう駄目であった。医師の言葉が耳を素通りし、話がよく飲み込めないのである。「しっかりせよ。パニックになっちゃいかん」と、もう一人の自分のささやく声が聞こえた。わたしはマスクをした医師の口元のあたりを見つめながら、なぜこの先生はいつもマスクをしているのだろうと、あらぬことを考えていた。

その1ヶ月半ほど前、わたしは近所のかかりつけのW医院でPSA(前立腺特異抗原)の血液検査をしてもらった。だいぶ前から排尿困難を感じていたこともあり、また数年前には義弟が同じ前立腺ガン手術をしたということもあって、妻にすすめられるまま、軽い気持ちでその検査を受けた。

結果は、PSA値が7.1であった。4.0以下なら安全圏だが、10.0以上ならガンの可能性がきわめて高いという。ちょうど中間の数値で、グレイゾーンである。

「前立腺の肥大でもこのくらいの数値になるから、心配しなくてもいいですよ」

W医師はそういいながらも、やはり精密検査が必要だとつけ加え、A医大付属病院のH医師に紹介状を書いてくれた。

1ヵ月後、その付属病院に3日間の検査入院をし、前立腺の組織検査を受けた。前立腺から6カ所の細胞を採取し、それを顕微鏡で検査するのである。下半身麻酔のちょっとした手術であったが、しばらくは血尿が出て、鈍痛が続いていた。それから10日ほど過ぎた今日、わたしはA医大付属病院で前立腺ガンを告知されたのである。

平成13年7月、夏はこれから本格的暑さを迎えようとしていたときのことであった。

わたしは気が動転していたが、妻は冷静に質問したり、メモを取ったりしていた。

帰宅後、二人でH医師の言葉を反芻しながら、病状を正確に把握しようとした。細胞診断の結果では、わたしのガンのステージは、ウイットモア・ジュエット分類のA1からD2まである段階のうち、B1であり、比較的初期だという。悪性腫瘍は6カ所から取りだした組織のうち、1カ所に見つかっただけであるし、触診の結果からも外部への侵出や露出はなく、ガンは前立腺内に局限されているという。絶望するにはまだ早い。わたしはやや落ち着きを取りもどすことができた。

H医師の話を総合すると、このガンの治療には三つの選択肢がある。@手術、A放射線治療、Bホルモン療法である。そのほかにもう一つ、放置することもあるという。

「ほっておいてもいいのですか?」とわたし。

「それはよほどの高齢者か、重篤患者の場合です。そのままにしていても、90歳まで生きる人もいるし、数年で死ぬ人もいる。とにかく、この病気の特徴は進行がゆっくりだから、ほかの原因で死ぬ場合のほうが多いのです。安藤さんの場合は年齢からも病状からも、これには当てはまりません」

「そうですか。じゃあ、ホルモン療法は?」

「ホルモン療法は手術または放射線療法と組み合わせて、その前治療として行うのがふつうです。もちろん、ホルモン療法だけの治療もありますが、それは最初のうちはよく効くが、ガン細胞の活動を抑えるだけです。根治療法ではありません。数年で効かなくなると、また再発することがあります」

「放射線療法は?」

「かなり効果が期待できます。1週間に5回、連続照射し、約7週間かかります。以前よりはずいぶん進歩して、健全な組織を痛めることは少なくなりましたが、それでも副作用が大きいことは承知しておいてください。下痢、肛門痛、膀胱炎などが起こるおそれがあり、一度発症すると対応がむつかしい。それに放射線を一度行うと、効かなかったからといってその後で手術をすることはできません」

「では、最後にその手術のことですが・・・?」

「根治療法として前立腺全摘出手術がいちばん望ましい。しかし、1ヶ月ほど入院することになり、身体への負担はかなり大きいので、ほかに心臓などの内臓疾患のある場合は危険です。75歳以上の人には、手術はふつう勧めません」

「先生、じつはわたしは狭心症の持病があるのですが・・・」

10年ほど前、狭心症の発作を起こし、それ以来W医院で治療をうけていることを話した。わたしはできれば手術はしたくなかったのである。その口実になればよいと思って、遠い昔の狭心症を持ちだした。

「そうですか。それではあとで心臓のほうも診ましょう」

それから1ヶ月ほど、わたしはいろんな検査を受けた。ガン細胞が身体のほかの部分へ転移していないかどうかを調べるためである。心電図、MRI、骨シンチなどを受けたが、幸運にも、膀胱への浸潤や骨への転移などはなく、ガン細胞はやはり前立腺内に局限されているとのことであった。

わたしはほっとし、一瞬、気の休まる思いをした。しかし、安心はそのときだけであった。すぐに、これからの治療法を何にするかという大きな問題が降りかかってきた。いくつかの選択肢のはざまで、わたしの心は揺れながら悩むことになるのである。


2 選択肢の狭間

わたしはもう最初のショックから立ち直っていた。こうしてはいられないという焦りも手伝って、気持ちはしゃんとしていた。というより、むしろ勇み立っていた。


「さあ、戦闘開始! なにはともあれまず敵を知ることだ」

こうして、前立腺ガンの勉強が始まった。雑誌や本を何冊か購入して読んだ。インターネットからは、いくつもの病院や研究所の出している最新情報を集めたりした。

それで知ったことだが、著名人でこの病気で亡くなった人はぞんがい多いのである。外国では、往年のスターのゲーリー・クーパー、周恩来元首相、ホメイニ師、ミッテラン元大統領など、日本では、古くは湯川秀樹博士、中谷宇吉郎博士、最近では、三波春夫歌手、深作欣二映画監督などである。しかし、手術や治療を受け元気になった人も少なくない。外国ではシアヌーク国王や俳優のロバート・デニーロなど、日本では読売ジャイアンツの渡辺恒雄オーナーなどがいる。

またインターネットには、前立腺を克服した多くの人たちの体験記や闘病記があった。大いに参考になるとともに、勇気づけられもした。

しばらく後のある診察日、H医師はいった。

「あなたの心臓は手術に耐えられないというほどではありませんよ。でも、既往歴から考えて、手術一辺倒ではなく、放射線治療も選択肢の一つに残しておいたほうがよいと思います。放射線では、ガンセンターが新しい機械を備えていますから、一度そこでセカンドオピニオンを聞くのもいいですね」

H医師はわたしが手術に乗り気でないことを察してか、そういった。

「先生は、放射線のほうがいいとおっしゃるのですか?」

「いや、そういうわけではありません。このまえ説明したように、それぞれ一長一短があります。どちらにするかは、あくまで安藤さん自身がきめる問題です」

H医師の診察はいつも懇切丁寧であった。あるときなどは、外には何人もの患者が待っているというのに、一時間近くかけて、わたしへの説明や相談に乗ってくれたこともある。そんなときは申し訳なくて、わたしのほうがハラハラしたほどであった。ただ、丁寧であるのはありがたいことであるが、H医師は患者の意向を尊重するためであろうか、ハッキリこうしなさいとはいわない。そこがわたしの少々もの足らない点ではあった。

H医師はさらに言葉を続けた。

「手術にせよ、放射線にせよ、いずれにしても事前にホルモン療法をして、ガンを縮小させておく必要があるので、早速、今日からホルモン療法を始めましょう」

こうしてA医大病院で、わたしはホルモン療法を始めることになった。毎朝、ホルモン内服薬カソデックスを1錠飲み、毎月1回、通院してホルモンLH―RHアナログを注射されるという治療がつづくのである。

ガンに関する知識や情報は、書籍やインターネットからだけでは十分でなく、不安であった。やはり専門医から直接、セカンドオピニオンを聞く必要があると思った。そこである日、H医師の紹介状とレントゲン写真を持って、愛知県ガンセンターを訪れた。

「わたしの場合、放射線治療のほうがいいのでしょうか?」

「そうですね、放射線は当センターでもやっているから、それでもいいですよ。ここの機械はほかの病院のよりずっと性能がいい。それで直った人も多くいます」

医師は、わたしのレントゲン写真を見ながらいった。

「先生は、手術と較べてどちらをすすめますか?」

わたしは単刀直入に尋ねた。ドクターは間髪を入れずに返した。

「あなたは何歳まで生きたいですか?」

逆に訊かれて、わたしは一瞬とまどった。こんな質問には答えようがないではないか。この前亡くなった叔父の生きた96歳まで、というのは少々おこがましいし、父の享年76歳まで、といったのでは短すぎる。

「まあ、平均寿命までは生きたいと思います」と、当たり障りのない答えである。

「じゃあ、手術しなさい。手術が一番いい。あなたは71歳ですね、まだ若い。75歳を過ぎたら、もう手術はすすめない」

医師の答えは明快であった。

それから少し経った診察日のことである。A医大病院でたまたま主治医のH医師が不在で、別のドクターに診てもらったことがあった。その医師も

「H先生がどういわれたか知りませんが、私は手術がいいと思いますよ」

と、きっぱり言い切った。

こうしているうちに、ずっと続けていたホルモン療法のおかげで、2、3ヶ月後には腫瘍マーカーPSAが最初の7.1から0.2まで下がった。

「薬がだいぶ効いて、よくなりましたね」とH医師はいった。

しかし、ホルモンがバランスを欠いたためか、その頃から身体がカーッと熱くなったり、頭がふらついたりした。妻のいう女性の更年期障害とはこのようなものであったかと思いながら、そんな症状に耐えていた。

セカンドオピニオンは、いずれも手術をすすめていた。しかし、わたしは依然として、手術をするか放射線にするかについて迷い、悩んでいた。このままホルモンで治るというのなら、少しぐらいの副作用は辛抱するが、しかし完治する保証はない。では、放射線にするか?それも、副作用があるというし、根治療法でないという。ならば、手術か?1ヶ月も入院しなければならないし、術後の苦痛も大きいと聞く。それだけなら我慢すればいいが、危険度がかなり高いらしい。H医師によれば、この手術では血栓が飛びやすく、A大付属病院でもつい最近、手術は成功したのに、退院まぎわに脳血栓で死亡した患者があるという。H医師が手術をそれほど強くすすめないのは、そのためかとも思ったりした。

悩みながらも、わたしはH医師を信頼し、ホルモン療法をつづけていた。


3 腹腔鏡手術を決意


何回目かの診察日に、H医師は新しい情報を伝えた。

「最近、前立腺ガンにも新しい手術をやるところが出はじめましてネ。腹腔鏡を使うのです。お腹に6カ所ぐらい穴を開け、そこから腹腔鏡やメスなどを入れて前立腺を切除する方法です。いままでのお腹を切る開腹手術と違って、患者へのダメージが少なく、回復も早いので、1週間ぐらいで退院できるらしい。高年齢者やほかに病気のある人には、ふさわしい方法かもしれませんネ」

「その手術はこの病院でもやってもらえるのですか?」とわたし。

「いや、ここではまだやっていません。しかし、いずれここでもやることになると思います。この方法はこれから前立腺手術の主流になっていくでしょうから」

翌日、わたしは近所のW医院の医師に、腹腔鏡手術のことについて尋ねた。

「先生は腹腔鏡手術をどう思いますか?」

「その手術は実際に見たことはないが、患部を小さな鏡に映し、テレビを見ながら手術する方法ですから、常識的に考えても危険だと思いますよ。私はすすめませんね」

W医師は腹腔鏡手術には批判的であった。

腹腔鏡の手術をいろいろ調べているうちに、N大学付属病院がこの手術をかなり手広くやっていることを知った。そこで早速、H医師の紹介状を持って出かけた。担当のドクターは、親切に対応してくれた。

「この病院の前立腺ガンの手術は、腹腔鏡によるものが8割、開腹式によるものが2割です。ここでは、高度先進医療として手術料の半額を保険で認められています。よその病院でこの手術をすれば、手術費用が100万円ぐらいかかりますが、ここでは40万円で済みます。そのような病院は全国的にも数少ないはずです」

「危険はありませんか?」

「われわれは十分経験をつんでいるから、大丈夫です。私に任せなさい。あなたの手術は私がやって治してあげます」

医師の言葉は力強くひびいた。この先生にしようかと、そのときは一瞬こころが傾いた。

ホルモン療法をつづけてかれこれ8ヶ月になろうとしていた。H医師は悠長に構えているが、いつまでもこのままホルモンを続けていていいだろうかと思った。副作用はますます高じているようで、更年期様の障害のほかに貧血も進んで、脱力感が激しいのである。少し動くと息切れがする。あれやこれやで、決断を迫られる土壇場が近づいているのが自分でも分かった。

「やはり手術をしようか」

いつの間にか、手術に賭けてみたいという気持ちが強くなっていた。それにしても、やはり難題は残っている。開腹手術にするか、新しい腹腔鏡手術にするかである。それに、開腹手術ならがんセンターではなく、やはりこれまで世話になったH医師に頼むべきであるが、どうも先生は「わたしが手術してあげよう」とはいってくれない。わたしのかつての狭心症を恐れているのだろうか。いっそのこと、N大付属病院で腹腔鏡手術を受けようか。でも、H医師とは逆に、N大病院のドクターの患者へのなれなれしい言葉遣いや手術をはやる態度からは、患者のためというより、医師としての実績を上げようとする意図が見え隠れしていて、踏みきれないのである。

そのころ、勤務先はちょうど年度末が近づいていた。わたしは自分の属する科の科長に、今年度末で辞めさせてもらいたいと申し出た。公立高校退職後、私立短大の専任として10年勤め、その後非常勤として来年の3月で2年勤めることになるのだが、もういまとなっては自由な時間だけがほしかった。残された時間は多くない。身辺整理もしなければならないし、心の準備も要ると思った。

最終的に決断する日がきた。心配していた長男と次男が大阪と東京からやってきた。やはり持つべきはわが子であるという思いを噛みしめながら、妻を含めて3人の付添をしたがえ、わたしは土曜日の午後、わざわざ面会の時間をつくってくれたH医師のもとを訪れた。

医師はその席上、N市のさる病院にT医師という、前立腺ガン腹腔鏡手術に関しては日本でも1、2を争う医師がいるということを教えてくれた。

「私の同僚の先生が実際その手術を見てきたが、素晴らしい技量だと感嘆していました。もし腹腔鏡手術をするということになれば、その先生がいいのではないでしょうか」

それから息子たちも交え、話し合いは1時間ほど続いた。大阪の会社の研究所で皮膚や皮膚ガンの研究をしている長男は、素人よりは話がわかるのであろう、いろいろ質問していた。だが、結論はなかなか出なかった。最後に、わたしは思いきってH医師に尋ねた。

「先生のお父さんがかりにこの病気になられたとすれば、どの治療法を選ばれますか?」

暫く考えたすえ、医師はいった。

「私だったらやはり、身体に負担の少ない腹腔鏡手術を選びます」

この一言で、わたしは腹腔鏡手術を決意した。

しかしこのとき、わたしはまだ腹腔鏡の恐ろしさを知っていなかったのだ。つい先ごろ新聞をにぎわしているJ医大付属病院をはじめ、いくつかの病院で裁判沙汰になっている事故死のことは、まだ病院の密室のなかに閉じこめられ、世間の目には触れていなかった。「知らぬが仏」か「めくら蛇に怖じず」の蛮勇で、わたしは危険が待っているとはつゆ知らず、腹腔鏡手術を選んでいたのだ。


4 不吉な前兆

平成14年4月中旬の早朝、わたしはH医師の紹介状を携え、X大学付属病院へ向かった。腹腔鏡手術で有名なT医師はこの3月でN市の病院を辞め、4月からは関東にあるこのX大学付属病院に教授として迎えられていた。

診察室で初めて接したT教授は50歳がらみのがっしりした体格の医師で、重厚な態度のなかに自信のほどをみなぎらせていた。

「前の病院で、私は70例ほどの腹腔鏡手術をしています。おそらく日本では一番多いでしょう」

T医師は、腹腔鏡手術とはどういうものか、こまごまと説明してくれたが、すでにおよそのことは知っていた。だから、医師の説明に魅せられたというより、やはり医師の名声に惹かれたのであろうか、聞きながらわたしはこの医師に手術してもらうのがずっと以前から決まっていることのように感じていた。

しかし、妻の思いは違っていた。転勤してきたばかりの手術室で、今まで腹腔鏡手術の経験のない新しいスタッフと、うまくチームプレーができるかという点を懸念していた。その点をただすと

「奥さん、安心してください。みなさんには私が十分教えます。もうすぐ他の病院でもここのスタッフを引き連れて手術のデモンストレーションをやるし、ここでももう1人の先約患者の手術をします」

妻はあまり気乗りしていないようであったが、それでもわたしの気持ちを察してか、最終的には同意してくれた。

1ヶ月後の5月の中旬、再受診でX大学付属病院へ行った。そのとき、T医師は思いがけないことをいった。

「今度この大学では、国から高度先進医療の認可を受けようということになりました。そこで、あなたを手術の第1号の症例として申請したいと思いますが、よろしいでしょうか。そうすれば、手術を含めて治療費は一切病院持ちになります」

実験台になるのではないかと妻は警戒したが、わたしは申請を通すためにむしろ万全の態勢で臨むはずだから、かえって安全だと思った。それに、そのような特典を与えてくれたのは、就任早々はるばる名古屋からこの関東の地まで足を運んでくれた患者の労に、T医師が報いようとしたためかもしれないと、善意に解釈した。

採血、超音波、心電図などの検査をすませ、入院日を6月12日と決めた。心が少し落ち着いた。

この日、東京の三鷹に住んでいる次男は車で病院までやってきて、わたしたちを箱根にある彼の事業団の保養所へ連れて行ってくれた。妻とわたしはこれが最後の旅になるかもしれないと思いながらも、次男夫婦と孫2人に囲まれ、2泊3日の滞在を楽しんだ。

6月12日、入院の日がきた。わたしたちは五時に起床し、新幹線を乗り継ぎ、10時には病院に着いていた。手続きを済ませ、予約してあった個室にはいった。すぐに女性看護師さんから、説明を受けた。昼食後、循環器内科で負荷心電図などの検診を受けてから、手術などに必要な物品を売店で買いそろえた。

夜、T医師から手術についての説明があった。A女性医師と女性看護師が同席している。このA女性医師は、若くて冷たい感じの美人ではあったが、なかなかのやり手らしく、執刀医のT医師の代理として、その後も何度か診察・治療を受けることになった。

翌13日、昼食後、腹部の剃毛をし、下剤を飲む。腸の中を空にし、手術に備えるためだ。下痢が始まり、トイレ行きが頻繁になった。

夕方近く、また次男一家がやってきた。長男一家がアメリカに行っていて不在なので、その責任を感じてか、次男がいろいろ世話をしてくれる。嫁が紙袋をくれた。開けてみると、なんと千羽鶴であった。じーんと胸に来た。聞けば、この1ヶ月、嫁は次男にも告げず、ひとりで鶴を折りつづけ、完成する最後の日に次男にうち明け、数枚を手伝ってもらったという。感激ひとしおであった。この千羽鶴は、今もわが部屋の壁に飾ってある。

嫁と孫たちが帰り、次男だけ残ることになった。七時ごろ、麻酔医が二人来て、現在の体調や心臓の既往症のことなど、根ほり葉ほり問診していった。貧血がかなりあり、心電図の診断もあまりよくないので、明日手術をするかどうかを検討するという。やがて看護師が来て、手術は予定どおり行うことになったと告げた。大病院ともなれば、よほどのことがなきかぎり、予定は簡単には変更できないものらしい。

9時を過ぎると、それまで病室にいた妻と次男は追い出され、駅前のホテルに泊まりに行った。消灯後も、わたしはずっと点滴注射をつづけていた。

深夜、ふと目覚めると、点滴注射器がはずれ、シーツが真っ赤になっている。ベルを鳴らした。看護婦や当直医が飛んできて、手当てをしたり、シーツを換えたりした。寝ている間にわたしが無意識に腕を動かし、それで注射針が管からはずれ、その針から静脈の血が流れ出たらしい。女性医師のおこなった注射針の固定の仕方がずさんであったのだ。一事が万事ではないかと、このささいな事件になにか不吉な前兆を感じていた。


5 血管を切断される

6時の起床時間を少し過ぎたころ、はやばやと妻と次男がきた。いよいよ今日が手術だと思うと、やはり緊張は隠せない。6月14日、手術当日である。

8時、麻酔医が部屋に来て、軽い前麻酔を打った。8時30分、ストレッチャーに乗せられ、手術室へはいった。部屋には、白衣を着た医師や看護師が何人もいるのが、気配でわかった。手術台に移され、まず脊髄の麻酔注射、それから口に呼吸麻酔をあてがわれた。もうそろそろ9時かと思いながら、意識が薄れていった。

それから何時間たったのであろうか、混濁した意識の底で天井が動いていた。運ばれているのだと思った。どこかの部屋へはいったようだ。後で聞くと、そこは手術後の観察室で、なにか処置をされたようだ。それから、個室へ移されたころ、ようやく麻酔が覚めた。

妻の話によれば、手術は5〜6時間で済むから、遅くとも3時には出てくるだろうと聞かされていたが、午後4時になっても、5時になっても出てこない。なにか事故があったにちがいないと、妻と次男は付き添いの部屋でいたたまれなかったという。

妻の直感は正しかった。実はこの間、閉ざされた手術室では、おそらく患者の生死をかけたドラマが繰りひろげられていたのだ。本人はもちろん、妻も次男もうかがい知ることのできないドラマが

夕方午後6時近くなってやっと出てきた夫の顔は、血の気が失せ、まるで土左衛門のように脹れあがり、目はつぶれたようになっていたという。まさか、と思ったとき、執刀医のT医師が出てきた。手にした容器の中には、小さなミカン大のものがあった。

「これが摘出した前立腺です。手術は無事に終わりました。ただ、血管を少し傷つけてしまいました」

一瞬、妻は青ざめた。

「奥さん、大丈夫です。すぐ縫合しましたから」

「先生、それで9時間近くもかかったのですか?」

「はい、縫合したところがまた破れ、もう一度縫い合わせたからです」

妻はさらに仰天した。

「そんなこと、よくあるのですか?」

「そんなことはめったにありません。わたしが今までやった71例の手術のうち、血管を傷つけたのは一度だけです。ご主人で2度目です。」

こともなげにいう医師の態度に、妻は思わず言葉を失った。めったにないからといって、それが免罪になるはずはない。めったにないというその2度目が、夫の身に起こったのである。

腹腔鏡手術で血管を切った場合は、直ちに開腹手術に切り替える、と聞いていた妻は、

「お腹を切り開いたのですか?」と尋ねた。

「開腹手術はしていません。しかし、1カ所の孔を5センチほど切り広げ、そこから血管を縫い合わせ、出血を止めました。わたしはそれだけの技術は持ち合わせています」

T医師はむしろ得意気であったという。

顔面を引きつらせたまま、妻はさらに訊いた。

「輸血はしましたか?」

「していません。もう少し出血していたら、輸血しなければならないところでした」

妻には信じられなかった。開腹手術では万一の輸血に備えて自分の血を預血しておくのだが、ここではその必要はないということで、準備はしていない。輸血するなら得体の知れぬ血液を使うことになるかもしれないのだ。

あとで、T医師と妻とのやりとりを聞かされたわたしは、医師は冷静を装っていたものの、実際は初めての職場で、しかも腹腔鏡手術をこの病院の目玉としようと意気込んでいた手術で、血管破傷という失敗に、内心は激しく動揺していたにちがいないと思った。

妻はなお、いろいろ説明を求めたが、T医師は

「無事終わったから、ご安心下さい」

とだけ言い残し、そそくさと去っていった。その後ろ姿はいつものT医師に似ず、寂しげであったという。

手術当日だけは、付き添いが許されていたので、妻は一晩じゅう付き添ってくれた。輸血一歩手前までいったというだけあって、わたしは極度の貧血状態にあった。赤血球数は平常値が400万以上のところ、270万まで減少していた。栄養補給と一緒に麻酔薬の点滴をずっと受けているので、痛みはなかった。しかし、意識はもうろうとしていて、一晩中悪夢にうなされた。

夢うつつのなかで、寝ているベッドがエレベーターのように空中に上昇したり、下降したりするのを感じていた。そして、いつの間にかわたしは空中に舞い上がり、そこから下界を見おろしていた。下界では、カラー映画の特撮場面さながら、アリのような群衆が無数に押し寄せたり退いたりしている。そうかと思うと一転、わたしは暗い洞窟の中の通路で出口を求めてさまよっていた。突然、目の前に岩戸が落ちてきて進路をふさぐ。あわてて別の通路に入りこむと、また行く手をさえぎられる。

「あなたは三途の川を途中で引き返したのよ」

わたしの夢の話を聞いて、妻はそう言った。

なるほど、あれはひょっとすると妻の言うように、幽体離脱か臨死体験というものかもしれなかった。迷信めくが、もしも見おろした下界に自分の姿を見ていたとしたら、あるいはもしも洞窟の中で行く手を岩戸でさえぎられなかったとしたなら、今ごろわたしは向こう側の世界へ行っていたかもしれない。


6 タコ八の病院生活

手術の翌日、平成14年6月15日の朝は、夢うつつの境地を襲ったT医師の来診から始まった。妻が昨日の手術のお礼を述べているのを聞いた。次第に意識がハッキリしてきた。医師は、腹部を診察し、「大丈夫ですね」といった。わたしは身動きする力もなく、身体を医師と看護師のなすにまかせていた。

朝食は抜きであったが、昼食にはもう粥が出た。食欲のないまま、電動ベッドを起こされ、妻に食べさせてもらった。からだ中に管がくっついているので、自由が利かないのである。右の鼻孔に酸素の管、左の鼻孔に胃袋の管、首の静脈に点滴の管が2本、背中に痛み止めの注射管、腹部の手術孔には出血を吸い出すための管が左右2本、最後に導尿の管が1本である。数えてみると8本あった。

「まるでタコの八ちゃんだナ」というと、妻は笑った。入院以来はじめての笑顔だ。この状態はよくスパゲッティ症候群といわれるが、むしろタコ八症候群だと思った。

ところが驚いたことに、昼食後、もう立って歩けという。

「安藤さん、途中で休み休みでもいいですから、私につかまって病院の廊下を一周してください」

看護師さんはすべての管を点滴台に括りつけ、わたしを立たせた。右側に移動式点滴台をもち、左側の看護師さんにすがりながら、そろそろと歩く。気息奄々だが、これをやらないと血栓が脳や心臓に飛んで、脳梗塞や心筋梗塞を起こすおそれがあるという。

夕食は、もう普通食になったが、そんなに食べられるものではない。熱は依然として38度近くあった。今夜からは部屋の付き添いはできないことになっているので、妻は午後9時過ぎ、ホテルに帰っていった。

夜中、なにかイビキらしき物音を聞いた。もうろうとした目に映ったのは、部屋の片隅のソファーに眠っている1匹のしま模様のトラの姿であった。驚いて声を上げた気がする。すると、トラは突然近寄ってきたかと思うと、妻に変身した。

「わたし、心配だったから、やっぱり来ちゃった」

妻は午前3時に起き、タクシーを飛ばして乗りつけ、非常口から入ってきたという。トラの幻覚は、やはり貧血と熱のせいであろう。

第2日目。 朝、妻に付き添われ、フラフラする身体を点滴台にもたせかけて廊下を歩く。昨日よりは力が入った。

第3日目。朝、T教授が何人かの付き添いをしたがえ、回診にきた。熱は37度まで下がっていた。

昼食後、膀胱撮影をしたが、異常なしということで、導尿管を抜き取られた。息の詰まりそうな痛みであった。これで、自力でトイレに行かねばならぬことになった。看護師さんがやってきて、尿もれ防止のための肛門筋トレーニングを教えてくれた。懸命に練習したが、やはり尿漏れが起きてしまう。このときから当分、入院中はもちろん自宅療養中も、尿取りパッドの世話になることになった。

3時ごろ、横浜の義弟夫妻が見舞いに来てくれた。義弟は、もう導尿管を抜いたと聞いて、意外らしかった。そして、わたしの手術日程表を見て、さらに驚いたようだ。

「ええ?もう明々後日退院とあるが、本当なの?実は、見舞いはまだ早すぎるかと思ってきたのだが、もう少し遅かったら間に合わなかったところだね」

義弟はそういって笑った。同じ前立腺ガンではあったが、開腹式手術をし、3週間入院した義弟にとって、わたしの日程の短さは驚くに値した。しかし、わたしは血管切断で起こった貧血のために、退院はもっと先に延びるものと思っていた。

第4日目。朝、腹部のドレン二ヶ所と、首の静脈に入れていた点滴の管を抜き取る。今まで寝返り一つ打てなかった苦痛から解放され、すっきりした。

午後、T医師の回診があった。腹部の傷口を調べ、

「ずいぶんよくなりました。もういいですね。血尿はだれでもありますから、心配いりません。明後日の20日に退院してください。わたしは今日の午後、フランスへ発ちますが、後はA医師に頼んでおきます」という。

「先生、主人はまだ貧血がひどいので、もう少し置いていただけませんか?」

と妻がくいさがる。

「大丈夫です。貧血は家でうまいものを食べていれば治ります。ここはわたしの立場もありますから、予定どおり退院していただかないと困るのです。」

杓子定規の退院通告である。やはりそうかと思った。すでに血管損傷という不測の事態も起こしているし、そのうえ治療が予定以上に延びれば、高度先進医療認定のための手術は成功したことにならないのであろう。そうすれば、せっかくの申請が通らない可能性だってある。それに、治療費が一切病院持ちである以上は、経費の面からも早く出ていってくれないと困るのだ。

しかし、妻は陰で憤っていた、貧血のひどいのを追い出すように退院させることを。さらに自分の患者を退院するまで見届けず、途中でほかの医師に預けて外国出張とはー。たとえそれが腹腔鏡手術発祥の地のフランスでの研修だとしても、医師として許されることかという。妻のいうことも一理あるが、こちらは手術費と治療費をすべて病院におんぶしている身、医師の指示は金科玉条、絶対服従である。

第5日目。血尿や尿漏れは依然として続いている。夜、妻がホテルに帰るのを玄関まで見送った。それだけの体力がついたのをありがたく思った。そして妻の背中に手を合わせた。その晩は、これが病室での最後だと思うと、なかなか寝つかれなかった。眠れないまま、鈴木宗男衆議院議員逮捕のニュースをテレビで見た。

第6日目。朝、A女医が来て診察する。退院後の薬として、化膿止めの抗生物質、頻尿を止める薬、造血用鉄剤の3種類をもらう。お世話になったお礼を言う。詰め所へ妻と一緒に行って、看護師さんらへ挨拶をし、心ばかりの贈り物をした。会計をすませたが、食費と部屋代だけの出費であった。

正午少し前に、病院を出た。告知から手術までは1年と長かったが、入院日数は全部で8泊9日とあっけないほど短かった。

「案ずるより産むが易しとは、よく言ったものネ」

妻の言葉を聞きながら、タクシーに乗り込む。そのまま、三鷹の次男の家に直行。次回の診察日まで半月ほど、ここで厄介になりながら療養することになった。


7 退院してわが家へ

次男の家で過ごした最初の1週間は、37度台の微熱が続き、頭痛に加えて喉や耳の痛みも激しかった。風邪かもしれないと思ったが、妻は貧血のせいだろうという。しかし、1週間を過ぎるころから、体調は次第によくなっていった。一家がわたしの回復のために努力してくれたためであろう。妻は毎日、朝晩2回、包帯を取りかえ、傷口を消毒してくれる。嫁はわたしの貧血を治すため、栄養価の高い食事を懸命に作ってくれた。歩けるようになると、孫たちも「おじいちゃん、いっしょに歩こ」といって、わたしを近所の散歩に連れ出してくれた。次男も出勤前にどこかへ出かけている様子なので、嫁に問いただすと、回復祈願のお宮参りらしいという。また、胸が熱くなった。

こうして、次男の家での半月が終わるころ、体力はかなり回復し、貧血も治まっていた。

平成14年7月4日、再受診の日が来た。その前日は横浜の義弟の家で泊まり、当日は義弟の車でX大学付属病院まで送ってもらった。

T医師は傷口を見て、データのためであろうか、看護師に腹部をコンパクトカメラで撮影させた。

「傷口はすっかりよくなりましたね。尿漏れはありますか?」

「退院後1週間ぐらいはありましたが、今ではほとんどありません」

「摘出した前立腺を顕微鏡で検査した結果、ガン細胞は消えていました。代わりに異形細胞が見つかったという報告が、検査技師から来ています」

T医師の説明はそれだけで、ガン細胞がなぜ消えたのか、異型細胞とはなにかというような説明はなかった。

「日常生活で何か気をつけることはありますか?」

「とくにありませんね。軽い運動でしたら大いにやって下さい。食べ物は何でも食べてください」

「アルコールは?」

「少しぐらいなら結構です」

診察が終わると、義弟の車で横浜駅前のレストランへ行った。途中で乗せた義妹も加わった。退院祝いを兼ね、ささやかなご馳走をした。アルコールが解禁とあって、入院以来はじめてのビールを飲んだ。喉にしみた。

しかし、その後が悪かった。帰りの新幹線の中で、ひどい尿漏れを起こしてしまった。やはり当分ビールはお預けだと、思い知らされた。

23日ぶりに帰った名古屋は気温34度、夏たけなわであった。ちょうど1年前、ガン告知を受けたときも夏であったと思い出しながら、感慨にふけっていた。

家に着くと、まず長男にEメイルで今日無事自宅へ帰ったことを知らせた。

長男は、わたしが入院する1ヶ月前の5月に、一家でメリーランド州に移住し、彼はある医療研究所にいた。ついでに「異形細胞とはどういうものか」と質問してやった。しばらくして返ってきた返事によれば、異形細胞は前ガン症状で、それが成長してガン細胞になるという。しかし、それは変ではないかと思った。もしそうだとすれば、わたしの手術は何であったのか。A医大病院は、まだガン細胞になっていない異形細胞をガンだと誤診し、それに基づいてしなくてもいい手術を受けさせたというのか。その点を問いただすと、長男はホルモン注射のためにガン細胞が変じて異形細胞になったのではないかという。

後日、A医大病院のH医師に報告かたがたお礼に出向いたとき、H医師も同じようなことをいった。しかし、わたしはなにか釈然としなかった。


平成14年8月1日、1ヶ月ぶりで、X大学付属病院を訪れた。これがたぶん最後の通院になるであろうと思いながら、T医師から先回の血液検査の結果など聞いた。PSAは0.1以下になっており、赤血球数もヘモグロビンもかなり回復し、平常値に近づいているから、もう危険はないという。それでも妻は、尿の潜血反応や貧血などの点をいろいろ問いただした。するとT医師は

「奥さんは心配しすぎですね。それじゃあ、かえって病人を不安にするだけですよ。もっと医者を信頼してください」

と語気を強めた。たしかに、病人のわたしより妻のほうが取り越し苦労し、それだけに質問も多い。しかし、妻の肩をもつわけではないが、家族が病人のことを思いわずらうのは当然で、その不安感を取り除いてくれるだけの説明がないから、彼女はいつまでも納得しないのである。

妻はたしなめられたにも懲りず、さらに質問をつづける。

「異型細胞は摘出した前立腺のどこの部分にできていたのですか?」

前回説明がなく、わたしにも気になっていたことであった。

「それはいまここに記録がないから、私にもわからないですね」

と、T医師の返事は素っ気ない。T医師はたしかに腕はよいかもしれないが、しかしそれだけでは、理想的な医師とはいえないではないか。大事なのは、やはり患者や家族への心のケアだ。そのためのインフォームドコンセントではないかと思った。

しかし、不満だからといって、妻もわたしもT医師にかかったことを悔やんだかといえば、そんなことはない。いやむしろ、延々9時間もの長きにわたって手術してくれたT医師をはじめとする手術チームの方々には、いまも頭の下がる思いである。

「手紙を書きましたから、あとはH先生にしばらく様子を見てもらって下さい」

T医師はそういってH医師への手紙と診断結果を渡してくれた。妻とわたしは、丁重なお礼を述べ、T医師の診察室を出た。

平成14年の夏が過ぎ、秋になっていた。手術して、かれこれ4ヶ月たっている。PSA前立腺特異抗原値は0.1以下を保っていた。体調も回復し、わたしは毎日1万歩を目ざしてウォーキングに励んでいた。日常生活も以前と同じにもどっていた。いや、厳密にいえば以前とまったく同じというわけでなかった。その年の3月まであった非常勤講師の仕事はいまはなく、「毎日サンデー」になっていた。ストレスから一切解放され、自分の好きなことのできる身分の幸せを味わっていた。

そのころから、わたしは友人や知人に自分の手術のことを話しはじめた。ホルモン療法中はむろんのこと、手術後自分の家に帰ってからもしばらくは、ガンのことは彼らにはいわなかった。いいたくなかったのである。人間が本当に落ち込んだときは、人に相談したり、助けを求めたりすることはできないものだと思う。少なくともわたしはそうであった。

元気になって初めて、人に話した。伝え聞いて見舞いに来た旧友たちは、元気なわたしを見て驚いたようであった。

「おい、本当にガンだったのか?」

わたしは彼らに、きまっていったものだ。

「PSA検査だけは受けておいたがいいゾ。これから日本もアメリカ並みになっていくと、前立腺ガンが死亡率の上位になるからナ。天皇陛下や森喜朗前首相だってなるんだから」

といっておどしている。

ある日、いつもかかっている近所のW医院に薬をもらいに行った。

「すっかり元気になられて、よかったですね。ところで、安藤さんが手術を受けたというT教授は、日本でも有数の前立腺腹腔鏡手術の名医なのですね」

そういって、W医師は「日本の名医」という週刊誌の特集記事を見せてくれた。そこにはT教授の名前が上位に出ている。W医師は言葉を継いだ。

「そんな先生に手術してもらって、運がよかったですね」

かつて腹腔鏡手術に反対したW医師は、まるでそのことはすっかり忘れているかのようにいった。医師の言葉を聞きながら、その名医の手術ミスのことをもう少しで話すところであった。が、思いとどまった。この医師には、わたしは幸運であったことにしておこうと思いながらーー。

平成15年9月、東京慈恵医大青戸病院で前立腺ガン腹腔鏡手術を行った医師3人が、業務上過失致死容疑で警視庁に逮捕された。経験のないまま流行の腹腔鏡手術を敢行した医師の行為は論外であるが、その後も経験を積んだ医師が腹腔鏡手術による大量出血死を起こしている事実を知ると、あらためてこの手術のむつかしさを思った。

それにつけても、わたしはW医師の言った「運がよかった」という言葉を思い出す。そして複雑な気持ちになる。たしかに、日本で有数の医師に手術してもらったのは運がよかったかもしれない。しかし、わたしは血管切断の多量出血から危うく死ぬところであった。それは運がよかったどころか、この上もない不運な出来事というべきであろう。だが、まてよと、また思う。首尾よく縫合されて出血が止まったのは、名医だからこそできた技ではなかったか。下手な医者だったら、本当に死んでいたかもしれなかった。そう考えれば、T医師は命の恩人であり、やはりわたしは幸運というべきなのか。いやいや、そうとばかりはいえない。本当に幸運であるかどうかは、まだ今の段階ではわからないではないか。転移も再発も絶対ないと、決まったわけではない。これからが勝負である。

「ガン闘病記」はこれで終わるが、「ガン闘病」そのものはまだ終わっていない。たぶんそれは一生続くことになるであろう。

さて、これは後日談であるが、その年の11月26日付の読売新聞は前立腺ガンの腹腔鏡手術のことを報じ、その手術で高度先進医療の指定を受けている病院が全国で九つあるとして、病院名を掲載していた。わたしはその欄をなんども見返した。しかし、1年半前、わたしが申請のための第1号患者になったX大学付属病院の名前はそこになかった。(完)

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