「自分史」の入り口に立って

   −寡黙の父が教えたこと−         安藤 邦男

父はコタツにはいったまま、ひとり居間でテレビを見ている。わたしはその後ろを無言のまま通りすぎた。どのくらいたったのか定かでないが、ふたたび居間にもどると、あいかわらず父はテレビの前に坐ったままだ。眠っているのか、こんどは目をとじている。

「おとうさん、もう寝たら−」と声をかけたが返事がない。つと近づき、肩に手をかけた。ゆり動かすと、からだの重みがズシリと腕に寄りかかった。

「あっ、死んでいる」と叫んだとたん、目が覚めた。

これまで母の夢はよくみたが、最近は父がよく夢枕に現れる。それも、父の臨終の場面が多い。母の死に目には遇えなかったが、父はわたしの目の前で息を引きとった。それだけに、その死は30数年たついまも、わたしの脳裏に鮮明に焼きついている。

その日の夕方、わたしは仕事帰りに、実家に寝ている父を見舞った。1年ほど前に脳溢血で倒れた父はそのまま寝ついて、いまはもう意識がなかった。夜になって、病状が急変した。医者を呼んだ。呼吸がシャックリのようになり、それがだんだんゆっくりと、そして途切れとぎれになり、最後は嗚咽に似た声に変わって、そのまま息絶えた。

いまにして思うのであるが、あの臨終の嗚咽めいた声は一体なにを語っていたのだろうか。この世を去るにあたって、意識の底で何かひとこと言い残したかったのがかなわず、思わずいらだちの溜息となって表れたのであろうか。それとも、寡黙の父の日ごろ家族に思いの丈を伝え得なかったことへの、痛恨のうめきであったろうか。

明治生まれの父親の例にもれず、わたしの父も子どもには背中だけしか見せなかった。若いころ、久居の騎馬連隊に所属し、兵役が長かった父、祖父の死とともに帰郷し、農耕生活を営みながら戦中の窮乏期や戦後の混乱期を生き抜いた父、わたしは父のそんな後ろ姿だけしか知らない。木訥で無口な父と興味も関心も異なる息子は、あえて父と向き合うこともせず、父とはまったく別の人生を歩んだ。そしてもっと父を知りたいと思ったとき、すでに父はこの世にいなかった。父は何を感じ、何を考え、どのような人生を歩んだのであろうか、いまとなっては知るよすがとてない。父と半生をともにした母も亡いし、父の書いた手紙や日記も残っていない。

さて、因果はめぐるものである。もう少し父が自分の人生を語ってくれていたならよかったのにという思いは、いつしか逆に「お前は自分の人生を息子に語っているか」という問いとなってわが身に返ってきていた。気づいてみれば、わたしも寡黙な父に似て、息子に何ひとつ語っていないのである。

わたしは教師の端くれとして、いろいろなことを教えてきた。教えることが仕事であり、義務であった。しかし、わが子らに対してその義務を果たしたかと訊かれれば、答えは否である。

「親としての義務を果たす」、それはわたし流に解釈すれば、自分の生きてきた人生を語り伝えることでなければならない。そのためにいまの自分のできることは「自分史を書く」こと以外にはない、といつかわたしは深く確信するようになっていた。

息子たちは現在、父親の取るに足らぬ人生などに興味をもつ暇はないかも知れない。それでも、いずれ彼らも老境を迎え、親を失うであろう。そして自分の歩んできた人生を振り返るとともに、亡き親の人生を知りたいと思うときが来ないとはかぎらない。いや、わたしの経験に照らせば、かならず来るはずである。そのうえ、わたしが自分の祖父母について知りたいと思ったように、わたしの孫たちもきっとそう思うにちがいない。その日のために、わたしは自分の人生をたとえ拙いものであっても、一冊の書としてまとめ、家族に残しておきたい。

さらに望むらくは、わが教え子たちの目にも触れんことを、である。彼らにも、かつて教壇の向こう側に隠されていたわたしの素顔を見てもらいたい。本音の声を聞いてもらいたい。そう願うのは、望蜀のそしりを受けることになるであろうか。(平成15年12月)


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