『智恵子抄』は「自分詩」である 安藤邦男
昔から読んでみたいと思いながら、なかなか読む機会に恵まれなかった文学作品が何冊かある。そんな本の一冊、高村光太郎の『智恵子抄』を最近読んだ。
恥ずかしながら彼についての知識は、東京上野公園の西郷隆盛像を制作した高村光雲の息子で、彼自身も彫刻家でありかつ詩人であるということぐらいだった。
ただ、彫刻家としての光太郎には思い出がある。かつて北海道から東北に遊んだとき、十和田湖畔で光太郎の二体の裸像からなる「乙女の像」を見たことである。そのとき、相向き合った二体のブロンズ像からは、乙女という言葉にはそぐわない豊満な体躯、力強い足腰の印象を受けた記憶がある。
詩人としての光太郎については、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」や「東京には空がない」など、人口に膾炙した詩句の作者だという知識があったし、後に大東亜戦争を鼓舞した前歴があることなどから、わたしは彼を志の高い、硬骨漢かと思っていた。
しかし『智恵子抄』を読んでみて、わたしはあらためて自分の認識不足を知らされたのである。『智恵子抄』には、愛する妻、智恵子を詠んだ詩が四十九編、ずらりと並んでいる。智恵子への激しい愛、優しい慈しみ、満腔の謝意、絶ちがたい追憶、夭折への悲しみなどが、女性的と思わせるほどの繊細で感性豊かな文体で綴られている。
一例を挙げてみよう。冒頭に「人に」と題する詩がある。これは、光太郎が智恵子と知り合ったころ、彼女がほかの男性と婚約していると聞いて、その婚約を破棄させようと、明治四十五年に書いた詩である。
いやなんです/あなたのいってしまうのが――/花よりさきに実のなるような/
種子よりさきに芽の出るような/夏から春のすぐ来るやうな/そんな理窟に合は
ない不自然を/どうかしないでいて下さい/型のような旦那さまと/まるい字を
かくそのあなたと/かう考へてさえなぜか私は泣かされます/小鳥のように臆病
で/大風のようにわがままな/あなたがお嫁にゆくなんて/いやなんです/あな
たのいってしまうのが――(後略)
詩集の次に納められた「智恵子の半生」という随筆には、光太郎が彼女と出会ってからその死に至るまでの足跡が詳細に書かれている。読みながら、わたしはいく度も、胸にこみ上げる熱い思いをこらえていた。あらすじを紹介する。
明治四十二年フランスから帰国した光太郎は、不安と焦燥から退廃的な生活を送っていた。そのころ、たまたま彼のアトリエへ遊びに来た智恵子に出会い、明るくて積極的な彼女をたちまち好きになり、家族らの反対を押し切って結婚する。
光太郎はいう、「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」と。そして二人は共に充実した創作活動を続けていくが、生活は苦しかった。次のように続けている。
「私たちは、定収入というものがないので、彼女は独身時代のキラキラした着物を着なくなり、ついに無装飾になり、家の中ではセーターとズボンで過ごすようになった。」
だが、福島生まれの彼女には、貧乏よりもっとこたえたものがあった。東京の自然が身体に合わなかったことである。
「東京には空がない」といつも嘆いて田舎の実家へ帰っていた彼女だったが、実家が破産し、帰る処がなくなると、次第に体調を崩していき、ついには精神も変調をきたすようになる。
昭和七年、智恵子は遺書を書いて自殺を図るが、未遂におわる。だが、今でいう認知症はますます昂進し、昭和十三年、収容された品川ゼームス坂病院で死去、死因は肺結核、享年五十二歳であった。
彼女の死後、三年たった昭和十六年八月、光太郎は『智恵子抄』を上梓しているが、時期はまさに太平洋戦争が始まる直前、世の中は戦時色一色の時代であった。
想い起こせばこの年、わたしの叔父は出征しているし、わたし自身も陸軍幼年学校に入るべく、受験勉強をしていた小学六年生。そんな時代に、このような純情詩集が出版されているというのは、まさに驚嘆に値する。
今にして思うのであるが、光太郎がもう少し後代に生きていたなら、そして彫刻刀の代わりにギターを手にしていたなら、シンガー・ソング・ライターとして溢れ出る妻への愛の賛歌を聴衆の前に披露していたかもしれない。それほど、光太郎の詩は生きた現代を想像させるのだ。
妻といえば、わたしも愚妻のことは、自分史に何度も書いてきた。知人の中からは、よく臆面もなく妻のことが書けるものだと、皮肉混じりにいう声も聞いた。だが『智恵子抄』を読んだ今、そんな声は無視しようと思う。ここには自分の妻を真正面から賛美し、互いの愛を遠慮会釈なく惚気(のろけ)る詩人が八十年も前にいたことを、自らに言い聞かせよう。
そしてわたしの想像はさらに飛躍する。『智恵子抄』とは何であるのか。それは愛に生き、愛に殉じた妻への賛歌であり、挽歌であり、さらにその一生を詠った「自分詩」でもあると言えないだろうか。
そうだ。わたしには「自分詩」は書けない。しかし光太郎の「自分詩」の精神は、これから自分の拙い「自分史」に生かすことはできるだろう。
(令和元年七月作品)