わが人生の歩み(40

   出版の苦しみと喜び                    安藤 邦男

 

平成十五年十月のある日、わたしは妻に誘われて名東生涯学習センターの文化祭へ出かけた。会場の一角で、ブリキで作った製本機を売っていたので、何気なく購入したが、後になってこれが大いに役立ってくれようとは、そのときは夢にも思わなかった。

そのコーナーには製本機のほかに、同人誌「なごやか」が展示されていた。立ち読みしたわたしは、それぞれの人が自分の生き方を赤裸々に書いた自分史に心を打たれた。

それが「名東自分史の会」(当時の名称)へ入会したきっかけであった。

自分史の会に入ったわたしは、その前年にがんの手術をした体験をもとに、毎月一章ずつ七ヶ月にわたって書き続けることになった。それが「前立腺がん闘病記」である。

同人誌「なごやか」50(平成164)および51(平成167)に発表された闘病記は、わたしにとっていわば自分史の処女作であった。

それ以来書き続け、もはや十五年になる。「なごやか」も今年で九十六号になり、やがて百号を出す記念すべき日も近い。

自分史の会に入ってしばらくすると、わたしは自分の書いた自分史やエッセイの類いを、「なごやか」とは別に自分の文集として纏めたいと思うようになった。ここで、冒頭に述べたブリキ製の製本機のほか、会友の田口さんから頂いた木製の製本機が、わたしの思いを実現してくれることになったのである。現在、「いたどり記」と名付けたわたしの自家製本は、第三号まで作成し、親族、知人、教え子らに贈呈してきた。

ところで、本格的な書籍の出版は、短大在職中に中日出版社から上梓した「英語コトワザ教訓事典」(平成十一年)であるが、これは費用を全額負担する自費出版であった。英語のことわざに含まれた教訓を246個抽出し、それをもとに一千例を超える英語ことわざを教訓別に分類・配列したもので、便利な用法辞典としてマスコミにも取り上げられた。それもあったが、また縁者、知人の協力もあって、一千部を完売、赤字はすべて解消した。なお、この本の内容はそのままホームページに公開しており、現在は巨大辞書サイトWeblioの中にも納められ、多くの人の利用に供している。

前号で書いた名古屋市高年大学を卒業してからは、時間的にも余裕ができたので、一日の大半をパソコン相手に過ごしはじめた。自分史を書くほか、ことわざについても新しい知見を注入しながら、少しずつ原稿を書きためていた。

 自費出版の成功で自信を得たわたしは、前著を少々改定した簡約版の原稿を完成し、商業ベースに乗せるため東京のいくつかの出版社に出版を打診することにした。ネットに載っている出版社の一覧表に目を通しながら、ことわざ関係の書籍を出しているか、または出してくれそうな出版社を十数社選び出し、目次と原稿の見本を送って出版を依頼した。二つの出版社から出版承諾の返事が来て、わたしは辞典類の出版で名高い東京堂出版にお願いした。出来上がったのが「テーマ別 英語ことわざ辞典」(東京堂出版・平成二十年)である。十種類に近い新聞や雑誌に取り上げられ、お陰で三版まで印刷してくれた。

その翌年、短大の研究誌に発表したエドガー・アラン・ポオについての諸論文にも日の目を見せてやろうと思い、前著と同じようにいくつかの出版社に打診してみたが、専門書を企画出版として引き受けてくれるところはなかなか見つけられず、やむなく自費出版とした。「エドガー・アラン・ポオ論ほか」(英潮社・平成二十一年)である。この本は、「わが人生の歩み(38)」で紹介したポオの三論文のほか、「生活記録と文学」(岩波書店「文学」昭和三十一年三月号)および「文学批評の原理と方法(序説)(「われらと」昭和三十四年一月)を含んでおり、これはマスコミには乗らなかったが、わたしの愛する自著である。

さて、またことわざ研究の話にもどるが、英語のことわざには同じ意味の日本語ことわざがある場合もあり、また無い場合もある。そこに日本と英語圏の文化の違いがあることに興味をもったわたしは、それを解明しようとした。そして書いたのが、「東西ことわざものしり百科」(春秋社・平成二十四年)であった。春秋社が引き受けて出版してくれた。

そのころから、わたしはいくつかの団体やクラブからことわざの講義を頼まれるようになった。各種老人会、自治会、福祉事務所などへ、多いときは年に二十回近く出かけて講義した。

「あまり無理しないでよ」という妻の忠告も無視したせいか、以前から抱えていた慢性腎臓病が悪化しただけでなく、心臓に不整脈も生じてしまった。前立腺がんは完治したが、新たに発症した病気のために医者通いが多くなり、それに身近の人たちの不幸も重なって、憂鬱な日々がつづいていた。

外出も減った。毎月の自分史の会と数年前に有志と立ち上げた読書会は何とか続けていたが、毎週の囲碁や体操の日は休みがちになった。このままではいけない、体力もさることながら、問題は気力だ。もう一度、ことわざの本を出そうと決意した。

平成二十八年の秋、これまで出したことわざ辞典に物語風の味付けをし、新しい改訂版のための原稿を書きはじめた。翌年の二月、以前のように十数社の出版社を選び、原稿の見本を送って出版を打診した。

するとまず、全国的に学習塾を展開する「くもん」からメールが来た。原稿は小中学生には難しすぎるので出版できないが、小中学生向きの易しい英語のことわざの本を出したいと考えていたところだから協力してくれないかという。引き受けると、東京本社からやって来た二人の編集者と数回打ち合わせをし、その後はメールで原稿のやりとりをしながら、長丁場の仕事を進めていった。女性漫画家やアメリカ人などの協力も得て、十ヶ月後のこの一月、全四巻の「やさしい英語のことわざ」(くもん出版・平成三十年)が完成した。評判がよいらしく、その後第一巻の「日本語と似ている英語のことわざ」は重版された。

出版の打診へのもう一つの返事は、語学図書などを出版している「開拓社」から来た。当社で出版を引き受けるという。しかし「くもん」から遅れること数か月で、そのときはすでに「くもん」依頼の原稿を作成中だった。したがってその上に、「開拓社」との原稿のやりとりや校正が重なり、一昨年末から昨年の始めにかけては、てんやわんやの毎日だった。

その過労が祟ったのかどうか定かではないが、今年の二月十二日、わたしは脳出血で倒れた。だから残された膨大な原稿の再校正の作業は、妻に頼らなければならなかった。その間の事情は「禍福は(あざな)える縄の如し」(平成三十年四月作品)で書いたとおりである、

三月二十四日、わたしは一ヶ月半の入院を終え、無事退院した。その後は、リハビリ生活を続けている。

そしてそれから三ヶ月後の六月、産みの苦しみのすえ、「ことわざから探る 英米人の知恵と考え方」(開拓社・平成三十年)が無事出版され、「開拓社 原語・文化選書」の中に七十四冊目の叢書として名を連ねることになった。        (平成三十年十二月)