わが人生の歩み(39

   高年大学で学ぶ                      安藤 邦男

 

 平成十二年三月、わたしは専任として十年間勤務したI短期大学を定年退職した。引きつづいて同学で毎週一日、二時間受け持ちの非常勤講師として働くことになり、この仕事はそれから二年間やることになった。

そうは言っても、週一日の勤務は無いに等しく、退職後は自由時間に恵まれた第三の人生の始まりといってもよかった。暇を持てあましてわたしは、県知事が総長を務めるという「あいちシルバーカレッジ」に入学した。週一回の講義は歴史、文学、健康など、老人向きの話が多く、それなりに面白かった。

ところが不幸は、思いもしないときに突然やってくるものである。それを古人は「青天の霹靂」といった。前立腺がんの宣告である。まずまずの健康体を維持してきただけに、心の打撃は大きかった。

もうこれ以上仕事を続ける自信はなく、非常勤講師の職は二年目の平成十四年三月に辞めた。そして五月、わたしは神奈川県のT大学病院へ入院し、前立腺がん摘出の手術を受けた。そのことは「前立腺がん闘病記」としてすでに発表済みである。(「なごやか」50号・51号およびHP「いたどり記」に所収)

さて退院後は、年金生活だけの人生が待ち構えていた。予後の医者通いのほか何もすることのないわたしは、愛知県のシルバーカレッジと同様の高年者向けの学習機関である名古屋市の高年大学に応募して入学した。

平成十六年四月、高年大学の入学式があった。名簿順ということで、わたしは五百人ほどの学生を代表して、松原学長(当時の市長)の前で入学の宣誓を読み上げた。

ガンの予後の健康維持のためもあって健康学科に入ったのだが、授業内容には一般教養のほか病気の知識や体調管理の方法などがあり、午後は体操などの実技もあって充実していた。わたしは健康学科を選んだことに満足した。

週二日の登校日のもう一日は、クラブ活動の日であった。わたしは国際文化研究に入り、互いに研究発表をしたり、国際センターその他の施設を訪問したりして、楽しみながら研修活動を行ったものである。

そのほか高年大学には、修学旅行を始め、遠足、運動会、文化祭などの行事が目白押しにあって、ここで過ごした二年間は久しぶりに学生時代を思い出し、気分的にも若返り、充実した日々であった。それはわたしだけではない。学生間で、ロマンスの噂を漏れ聞くこともあった。

ただ、いまでも思い出し、老いてなお人間の本姓は変わらないものだと、悲しくなる事件もあった。クラブのなかの人間関係のごたごたである。

わたしの所属するクラブ国際文化研究会にも、下部組織としていくつかの委員会があり、その一つに旅行委員会があった。この委員会は毎年、旅行の候補地を提案し、クラブはそれに従って旅行するのが慣例であった。

ところが二年目、新しく選任されたクラブの代表がそれをくつがえし、行先を変えてしまった。気持ちの収まらないのは旅行委員会の面々で、それまで仲のよかったクラブは、少数の代表派と多数の委員会派の二つに割れてしまった。

「みんなで決めたことをまとめて実行するのが代表の役目なんだ。それがなんだ! 彼は自分が社長にでもなった気でいるのか」

代表を非難する陰口をよく聞いたものだ。

これに類する事件は、あちこちであった。ある部署で責任を持たされると、自分が偉くなったとでも勘違いするのか、仲間の者を無視して自分の意見を押し通そうとする。おそらくそれは、現職時代に役職に就いた者が部下に命令したことから身についた習性かもしれない。「雀百まで踊り忘れず」というべきか。

そんなことがあったとはいえ、ここでの二年間の活動は貴重な体験であったと思う。

卒業後も高年大学の影響は大きい。各区にはOB会があり、わたしもこの地区の鯱友会に属しているし、健康学科や国際文化研究クラブのOB会の主催する行事には、できるだけ顔を出そうとしてきた。ここ四年ほどは、志願して生活科の講師も務め、ことわざの講義をしている。

しかし、この二月に脳出血を起こしてから、わたしは身体も頭脳も以前ほどの能力を失っている。それに、何かをしようという意欲も乏しくなった。わが人生も、ここらあたりが年貢の納め時かと思うこの頃である。

                         (平成三十年十月)