訓話のメモ書きから              安藤 邦男

S高校に在職中、数年にわたって生活指導部の主任を務めたことがあった。

その頃は、華やかなりし学生運動は過去のものになり、生徒は一般におとなしく、問題行動はあまり見られなくなった。それでも不測の事態に備えて、遅くまで学校に残ったものであった。そんなとき、つれづれの慰みは同僚と囲む碁盤であった。そんな長閑な時代であった。

 ただ、指導部主任としての大きな仕事が二つあった。ひとつは、問題行動を起こした生徒への個人的指導であり、もうひとつは、毎月の始めに設定されている全校朝礼の時間と、各学期に行われる始業式と終業式で、生徒を前に生活上の諸注意や訓話をすることであった。

 とくに、ふたつ目の仕事がなかなか難しかった。こまごまとした注意には、生徒たちはまたかと、いやな顔をするし、退屈な話だと、あくびをしたり、そっぽを向いたりもする。

 彼らを飽きさせない、何か心に残るような話をしたい、それがわたしの念願であった。わたしは毎回、想を練り、要旨をメモに書いたりして、筋書きを組み立てた。しかし満足のいくように話せた訓話はほとんどない。

残っているメモ書きから文章化した愚作を二点、取り上げることにする。

弱さがあるから成長する ―昭和五十二年十二月記―

人間はだれでも、程度の差こそあれ、怠け心がある。怠け心は、学校のある間は比較的抑えられているが、冬休みになると一挙に表面に現れてくる。

街へでると、商店街はジングルベルの音とともに、年末大売り出しをやっている。パチンコ屋はある、喫茶店はある、成人映画はやっている、自動販売機では、酒やタバコは売っている。つい、手を出したくなる者がいても、不思議ではない。

さまざまな誘惑、その中にあって、屈せず自己を律するには、よほどの強い意志と勇気が必要である。そして戦う相手は、自分自身なのだ。

おのれの怠惰、おのれの弱さを完膚無きまでに、やっつける覚悟がなくては、戦いに勝てない。それはいってみれば、われわれ自身の中にある怠け心と向上心との戦いであり、葛藤である。

ときどき、そのような心の葛藤をもたない、優等生的人間がいる。彼は外界の誘惑を何ら感じることなく、「われ関せず」としておのれの道を邁進している。彼はある意味では立派である。しかし、ある意味では、かわいそうな人間である。心の葛藤のない人間に、真の成長はないからだ。

先日、ある問題を起こした生徒の提出した反省文に、次のようなくだりがあった。

「自分の心の中には、他人の迷惑を顧みない、自分だけよければ良いという、エゴイスティックな一面があって、我ながら嫌になります。果たして、自分は立ち直れるでしょうか」

後で彼を呼んで、私は言った。

「自分の弱点を自覚すればこそ、それを克服しようとする自制心が生まれるし、自分をコントロールする能力も身につく。弱点がなければ、それを乗り越えようとする努力もない。弱さにうち勝ったとき、人は真に強い人間になれる。不完全だからこそ、人間は完全になれる」

人間の弱点を真珠にたとえた人がいる。真珠貝は、柔らかい貝の肉の間に小石を入れられると、痛くてしようがない。体内の異物である小石を柔らかく包み込み、同化しようと成分を出しているうちに、小石はやがて光り輝く真珠になる。人は誰でも、心の中に弱点や欠点という小石を抱えていればこそ、やがて素晴らしい真珠を生み出すことができるのだ。

新しい年には、皆さんの一人ひとりが素晴らしい真珠をもって、登校することを期待するものである。

厳しさに堪える力を ―昭和五十三年四月記―

 去年の暮れ、私は同僚の先生方と赤倉へスキーに行った。そこで、私は思いがけず事故にあって、左肩胛骨に肉離れを起こし、地元の診療所で手当を受けた。

そのとき驚いたことは、私がそこにいた三十分ぐらいの間に、スキーに来ていた小中学生が次々と三人も、骨折や捻挫で診療所に運び込まれてきたことだ。

付き添いの先生が言うには、最近の子供たちはすぐに骨折をする。原因は彼らの骨が脆いというより、骨を支える筋肉が弱いからだそうだ。そして「身体の鍛え方が足らない教育にも責任があるでしょう」とつけ加えた。

 その通りだと思った。戦後の教育は、勉強面ではすぐに吸収できるように分かり易く教えるし、体力や精神面ではすくすくと育つようにと、障碍や困難を取り除いてきた。

それはそれなりに、よい成果をもたらしたのは事実だが、一面では困難を自力で克服しながら成長していくという、人間にとって大切な機会を奪うことになったと思う。

 最近増加した登校拒否も、そのことに関係があるのではないだろうか。

昔の母親は子供が転んでもすぐには起こさなかったものだが、最近の甘い母親は子供が転ぶとすぐに飛んでいって起こす。そのうえ、転んだ原因の石ころや柱を叩いたりして、「いい子、いい子、悪いのはこの石ね」といったりする。

自分の不注意で転んだと知れば、子どもは二度と転ぶまいと思って注意するが、悪いのが石であると教われば、成長の努力は停止するばかりか、非を相手のせいにする態度を身につけてしまう。

 登校拒否のもう一つの原因として、父親の権威喪失ということがよく言われる。「父なき社会」という本を書いた西ドイツの精神科医がいるが、現代社会の特徴は父親の子どもに対する影響の弱まったことにあるとしている。昔は「父よあなたは強かった」と歌にもうたわれたが、時代の流れは、父親の権威主義を否定する方向に動いているようだ。残念なことに父親はもう、子どもの手本ではなくなってしまったようだ。

こう言ったからといって、私は決して皆さんのお父さんやお母さん方を非難しているわけではない。そうではなくて、私は皆さんに、自分たちがいかに肉体的にも、精神的にも、過保護な状況の中におかれているかということを、ハッキリと認識してもらいたいのである。現状を打破する勇気は、まず自分のおかれている状況を把握することから始まるのではないだろうか。

                 (平成三十年七月)