高校生に奨めたい読書の方法

―若いころ勤務校の図書館報に書いた記事より―

                            安藤邦男

  最近、気分の良い日は少ないが、乱雑な仕事部屋を少しは整理しようと思い、書類戸棚を開けては、昔のパンフレットなどを残すべきもの、捨てるべきものと分類している。

そんなある時、わたしの赴任校であった昭和高校の図書館報を見つけた。懐かしくなって、ページをめくりながら目を通していると、その中にわたしの書いた読書感想文の講評があった。

思い出せば、その頃わたしは図書部を担当しており、その年はちょうど校内の読書感想文コンクールが行われたときであった。

生徒の作品の選定は委員の先生方で行なったが、結果を発表する際、読書感想文の書き方や読書の仕方についても指導してはどうかということになり、そんなことを含めて全体の講評をわたしが書くことになったのである。

 あらためてその講評を読み直してみると、まず導入のまずさが目につく。一般の生徒の作品をあまりにも酷評しすぎている。これでは、生徒は読む意欲を失ってしまうだろう。

また高校生には聞き慣れない言葉がやたらに出てくるし、叙述の仕方も独りよがりになっている。とくに後半は、「自他一致」「自他対立」「自己否定」などの哲学的用語を用いた説得調の文体になっていて、はたして高校生の何人が理解したか疑問である。

ところで、この文章を自分史の作品としてここに掲げるのに、今わたしはためらいを感じている。

それは現在、わたし自身が寄る年波に加え、体調不良もあってまともに読書のできない事態になっており、所属する読書クラブの課題図書でさえ、妻に読み聞かせてもらっている始末である。

それに、自分史の会員として同じ会員の皆さんの作品に書いた感想文も、不完全なものが多い上に、近頃は書くことさえサボっているという惨状である。

そんな身の上にありながら、たとえ昔の文章であろうと、読書や感想文について偉そうなことが言えた義理かと、もう一方の自分の声が耳にささやくのである。

それやこれやで臆する心があるが、これはこれで当時のわたし興味や関心がどこにあったかを示す記録であるし、というよりも血気にはやる若年教師の青臭い議論の証拠でもあるので、自嘲の意味も込めて、あえて公表することにした。乞うご寛恕。

「読書感想文コンクール講評」

     選考過程の報告

 二年の各クラスからまず五点ずつを、担任の先生に選んで頂き、それに三年生の数点を加えて、全部で約九十点の感想文が、私たち八人の選考委員の手もとに集まりました。私たちは慎重に読み、評価し、検討を加え、そして前ページの表(省略)のように選定しました。

  なるほど、形の上では優秀作、入選作、佳作と、十四点をそろえることができましたが、正直にいって、私たちの期待に応えてくれるような作品は極めて少なく、その選定にはかなり苦労しました。「何か欠けている」ー それが私たちの第一の感想でした。これは皆さんの読書の方法自体に何か欠陥があるのではないか、そんな疑問を抱いたのです。

そこで、私は皆さんとともにその問題を考えてみたくなり、ペンをとった次第です。講評としては少々長くなりますが、最後まで読んで頂きたいと思います。

すぐれた感想文には対決のドラマがある

まず、私たちが何に不満をもったのかをお話ししましょう。それは皆さんの感想文の多くが、主眼点が不明で、一体何を言っているのか、あるいは言おうとしているのか、どうもよく分からないということです。

大抵の皆さんが断片的な感想をところどころに羅列しながら、ストーリーを追うのに精一杯であるか、またその反対に書物の内容から全然離れたところで、われとわが感想に酔いしれながら、自分の体験だけを語っているにすぎないのです。つまり、私たちには、皆さんのこれだけはどうしても訴えたいという内心の激しい叫びが、あまり感じられませんでした。

しかしその中にも、優れた作品もありました。満票で第一位になったJ子さんの「異邦人」は、すばらしい感想文でした。

何がすばらしいかといえば、第一に、彼女は深く理解した内容を、自分自身の言葉で正確に表現しているということです。第二に、彼女は作中人物のムルソーになり切っている、あるいはなり切ろうと必死に努力している。第三に、今度は逆にそのムルソーから自分自身を引き離し、「彼の生き方に疑問をいだき」、何が彼の生き方を生み出したのか、執ように追求していきます。見事な読書の態度ではありませんか。

  同じ優秀作のM子さんも「月と六ペンス」の感想文の中で、次のように書いています。「主人公が彼女を面と向って嘲笑し、軽蔑したとき、それまで彼の理想主義に陶酔していた私は、彼と対決しはじめた」と。この文章は、著者と読者の関係を象徴的に表しています。

  すぐれた感想文は、このように、作中人物あるいはそれらを創り出した著者と、それを読む読者とが、深くかみ合い対決する姿勢から、生まれるものです。そして著者と読者とが「かみ合い」「対決する」ところに発生する息づまるようなドラマが、感想文の魅力になるといえます。

   読書の原理は一致と対立

  さて、すでにおわかりのことと思いますが、すぐれた感想文の背後には、それを支えるすぐれた読書の態度があるのです。そしてすぐれた読書の態度とは、読書する自己が読書対象である書物に積極的に働きかけ、かみ合い対決しつつ、書物の内容を自分の経験として同化していこうとする態度のことです。

  例えば、漱石の「坊っちゃん」を読むとします。皆さんはそこに描かれている事件を「坊っちゃん」とともに喜んだり、怒ったり、悲しんだりします。つまり、その小説を読んでいる間中、皆さんは自分の立場を離れて、作中の「坊っちゃん」になり切っています。「坊っちゃん」は自分であり、自分は「坊っちゃん」なのです。ここでは読書する自己が他者である書物と完全に一体となっています。これを「自他一致」の世界と呼ぶことにしましょう。

  しかし、皆さんはこのような「自他一致」の世界にのみ留まっているかといえば、必ずしもそうではありません。皆さんは「坊っちゃん」であると同時に、ときには「坊っちゃん」の無鉄砲なせっかちさにハラハラしたり、彼の単純な正義感に疑問を持ったりします。

このようなとき、皆さんはすでに「坊っちゃん」の立場を離れて、つまり自分自身の立場にかえって、「坊っちゃん」の生き方を批判しているといえます。この関係は「自他一致」の関係でなく、「自他対立」の関係と呼ぶことができます。

  読書とは、このような「一致」と「対立」の関係を通して、自分の経験を高めていく過程にほかならないのです。

まず自分を無にして対象に没入すること

 ところで、このように読書が「自他一致」と「自他対立」の過程であるとするならば、皆さんは自分の読書を真に実り豊かなものにするためには、それらの原理の上に立って自分の読書の方法を確立しなければならないということになります。

そこでまず、皆さんは書物と自己との間に徹底的な一致関係を作り出さなければなりません。去来する雑念を捨て、全関心をあげてその書物に没入しなければなりません。書物の内容を自分の主観や偏見でゆがめることなく、虚心に、ありのままの姿で、いわば心の鏡に映し出さなければならないのです。

「坊っちゃん」になるだけでは不十分です。その作品の中のあらゆる人物になり切って、彼らとともに感じ、考えなければなりません。さらにいうならば、それらの人物を創造した漱石その人になるのです。そのときにこそ、著者の偉大なる経験が、皆さん自身の経験として皆さんの中に生きかえることができるのです。

   対象と一体化した自己を対象から切り離す

さて次は、「自他対立」の過程、すなわち書物と一体化した自己を書物から切り離すことを考えてみましょう。

読書ということが一つの認識活動である以上は、皆さんは例えば音楽に聞き入っているときのような、理想的な自他一致の世界に留まっていることは不可能なことです。

前述の「坊っちゃん」の例でも明らかのように、読書している最中にも対立は起こり得るのですが、しかし本来の意味での対立は、やはり書物を読み終わってからだといえましょう。

それは、読書というものを現実の生活と対比させ、大きな立場から考えるとわかります。読書過程がまず皆さんの一切の諸能力をあげて対象としての書物に合一することであるとすれば、読書活動そのものが実は自他一致の過程といえるのです。そして書物を読み終わって現実の生活にもどったときこそ、それまで対象に没入し隷属していた自己が真に対象から分離し、対立し始めるときなのです。

拡大された経験をいかに定着させるか

 (皆さんが現実の場で回復する自己は、読書以前の狭い自己ではなく、読書によって拡大された自己であることは明らかです、しかし、そのような自己はいわばまだ純粋な読書の世界から生み出されたばかりであり、純粋であるだけに強固ではありません。それを本当に皆さん自らの独立した自己として現実に定着させるためには、皆さんは読書する自己、すなわち書物の偉大さを同化した自己と現実の世界で生活する自己とを対決させ、交互に批判させる過程を経なければなりません。

具体的にいえば、友人や先生にその書物について意見を尋ねてみたり、その書物について書かれた他の書物を読んだりすることもよいでしょう。また読書会などで意見の交換をしたり、読後感想文や書評を自分で書いてみたりすることも必要でしょう。

いずれも、読書で得た経験を現実の生活の場に生かすための努力といえます。書物を読んでも、読みっぱなしでは、たとえそのときその場での自己の経験が拡大されることはあっても、現実の世界に生きる自己としての経験は決して豊かになることはないからです。

感想文を書くことの意義は何か

最後に感想文を書くことの意義について、考えてみたいと思います。

それは、読書によって拡大された自己を、現実の生活の場に定着させるための一つの試みであるといえるでしょう。しかし「書く」ということはただそれだけではありません。

自他一如の読書の理想郷において自他分離が始まるとき、自己はまずその未分化の混沌を漠然たる印象として意識しはじめます。やがて自己はその印象を秩序づけ、言葉として語り出します。それは対象を語ることであり、同時に自分を語ることであります。

こうして、対象即自己の境地を語るとき、その自己は以前の自己であるとともに、すでに以前の自己ではなくなるのです。何故かといえば、自己を描くということは自己を客観化することであり、描かれる自己を描く自己から分離することだからです。描かれる自己は古い自己であっても、描く自己は古い自己を脱皮した新しい自己なのです。このような自己分離あるいは自己疎外を通して、人間は成長し、進歩していくものなのです。

さて、結論に近づいたようです。話が大変むつかしくなりましたが、結局、私のいいたいことは、読書の世界において皆さんは第一に、書物に没入し、書物自体になり切ってしまうのです。そして第二に、そのような「書物になり切った自己」から「書物の偉大さを同化した自己」を分離し、現実の生活の場で独立させなければなりません。

これは一種の自己否定の過程といえるかもしれません。つまり自己が自己と対立し、自己が自己を分離し、自己が自己から独立するとき、はじめて皆さんは一冊の書物を読み終えたといえるのです。

読書感想文を書くことは、このような自己分離をもたらすための一つの契機なのです。これからも皆さんは読書の後には、メモでもよいですから、感想文を書いてください。そんな暇はないというのであれば、せめて友人同士で話し合うことでもよいのです。そうすれば、皆さんの読書生活はかならず豊かになるはずですから。

 付記

「柏葉」vol15号・愛知県立昭和高等学校・昭和4712月掲載。加除短縮版。

                 (平成三十年六月)