同病相憐れむ             安藤 邦男

 

 「こんどの病気では、一ヶ月半近い入院だったけど、あなた、どうでした? 人生観が変わったとかー」

 妻はインタビュアーのような口調で、わたしに問いかける。話し好きの彼女は、夫が黙っているのが不満で、なにかにつけわたしの口を開かせようとする。

 「そうだなあー、人生観が変わるわけはないが、入院という環境は新しいから、いろいろ感じることはあったよ」

 「じゃあ、それ、自分史に書いて読ませてよ」

 そう言い残すが早いか、もう友人との電話をはじめる妻であった。

彼女の話に乗せられたわけではないが、いずれ入院にまつわる話は、もう少し書かねばならないと決めていた。

 ただ、病気の経過や治療の話は前回書いたので、今回はわたし自身の気持ちを中心にまとめることにする。

 

 病後の現在、以前の状態と比較すると、歩くとき足から受ける感触に大きな違いがある。

足が地に着かないというか、雲の上を歩いているというか、そのくせ地面には強力な磁力があって、両足は吸引される。

この気分はさらに言えば、雲というより搗きたての餅の上を歩くようなものだ。まとわりつく地面の餅から、片足を力一杯引きはがす。すかさず、もう片足が引き込まれる。身体はバランスを崩してよろける。あわてて姿勢を立てなおす。

こんなことをくり返すのだから、疲れてしまうのだ。家のまわりを一回りするのに、出足は好調だが、中途からは酔っ払いのような足取りになるのをどうしようもない。

知人の何人かがステッキを勧めてくれたが、自力回復の妨げになるからと断った。

ところでわたしはこれまで、ステッキの人、松葉杖の人、車いすの人、また道具にたよらず不自由な足を引きずる人など、多くの人たちを見かけてきた。そんなとき、わたしは気の毒には思っても、あのようになっては大変だから、そうならないように気をつけようというぐらいにしか、考えなかった。

だがこのたび、介護施設の世話になって、肢体の不自由な人があまりに多いのに驚くとともに、自分もそのひとりになったのだという感慨がこみあげてきた。そして以前、自分が足の悪い人を見て感じたときの同じ感情を、五体満足な人がわたしに対して持つに違いないと想像してしまう。

だが、そう想像したとたん、わたしは自分の心の内がこれまでと違っているのに気づく。今やわたしは、人からそう見られたくないと思っているのだ。自分勝手かも知れないが、以前の自分がしていたような、うわべだけの同情はして欲しくないのである。

英語のことわざに「靴を履いている者でなければ、靴の痛むところはわからない」というのがあるが、自分がそうなってはじめて、わたしは足が不自由になることがどんなことなのか、判った気がする。そして元気な人には、それが判るはずはないと決めこんでしまう。「あなた方はわたしと住む世界が違うのだ」と断定してしまう。我ながら、困ったものである。

そこへいくと、介護施設には同じ悩みを抱えた人が多くいて、心が安まる。お互いがお互いの痛みを知っている気がするからである。

そこでまた、わたしはもう一つのことわざを想い出す。「同病相憐れむ」である。

このことわざ、広辞苑によれば、「同じ苦痛を受けている者は、互いに理解し合い同情する念が深い」とある。確かに、その通りといえるかもしれない。だが、この解釈は事態をあまりに一般化しているし、きれい事すぎないだろうか。

ことわざは状況の知恵だから、違う人が別の状況で使えば、意味も変わってくる。病人がこのことわざを口にすれば、広辞苑の解釈はその通りということになるだろう。しかし元気な人が話のなかに使ったとすれば、どうだろうか。

そこには、憐れみ合い、傷口をなめ合う病人たちを外から眺める、元気な人たちの冷ややかな視線が感じられないだろうか。「相憐れむ」のは病んだもの同士であって、元気な人は外野にいる気がする。そう憶測するのは、病人のひがみだろうか。

多くのことわざには裏の意味があるが、このことわざにもそれがある。広辞苑の解説を裏返せば、「同じ苦痛を受けない者は同情心がそれほど深くない」ということになる。さらにいうならば、「病人の苦しみは同じ病人にしかわからない」とまで深読みすることもできるだろう。

さて、屁理屈は止めにしよう。健康人の同情などを云々しても、始まらない。そんなことは、実はどうでもよいことなのだ。わたしを含めて、病人はみな他人の目を気にせず、懸命にリハビリに励んでいる。

いま週二回、デイ・ケアに出かけているが、これが楽しいのである。そこで働く人たちは、なぜこんなに親切なんだろうといつも思う。リハビリの世話をしてくれるのに、いちいち「お願いします」という。お願いするのは患者であるはずなのに,これでは主客転倒である。

人の情けを身に沁みて覚えるこの頃である。なかでも、実のある手助けがいちばん嬉しい。この気持ちは、倒れる以前には持ったことがない。どんなときにも、新しい発見があるものだ。病気になるのも、案外捨てたものではないようである。

         (平成三十年五月)