禍福は糾る縄の如し 安藤 邦男
祝杯のあとの異変
タクシーを降りて、家の門前に立って驚いた。フェンスに並べられた植木鉢には、茶色の土がむき出しになり、所々に枯れ果てた根っこが覘いている。
去年の今ごろ、この植木鉢には色とりどりの花々が満ちあふれていたことを思い出すと、この惨状は目を覆うばかりであった。妻の手が、花の世話に及んでいなかったことを、いやでも知らされた。
でも、やはり懐かしのわが家である。居間へ入ると、使い慣れた物が雑多に散らばっている。そこには、冷たい病室の雰囲気ではなく、四十二日ぶりに見る暖かい日常の世界があった。
ソファーで妻の出してくれたお茶を味わいながら、わたしはここにいたるまでの一連の波乱の日々を思いだしていたー。
去年の十二月から今年の二月にかけては、二つの出版社からの仕事を同時進行でこなすという、過密のスケジュールが続いていた。一つはくもん出版のもので、これは昨年末までに執筆が完了し、一月には四分冊が無事出版された。もう一つは6月出版予定の開拓社の仕事で、この原稿は印刷が完了したが、その後のゲラの校正作業が大変で、締め切りの一月末まで四苦八苦した。
そのあともまだ、仕事は終わらなかった。高年大学での講義が二月の七日と九日に続いてあり、休まる日もなかったのである。
だが、すべてが終わり、やっと一息ついたわたしは、建国記念日の翌日、妻と百貨店や電気店などを巡って買い物を楽しんだ。
その夜はわが家で、仕事が無事終わったことを祝って、ステーキとワインで祝杯を挙げた。そのとき、まさかこの平穏を一瞬にして吹き飛ばす異変が起ころうとはつゆ知らずに―。
食後のほろ酔い気分でトイレに立とうとしたとき、突如、わたしの身体は自由を失って床に倒れたのである。
今から考えると、減塩と減タンパクの腎臓食ばかりを食べていた身体には、濃厚な夕食が負担だったかもしれない。さもなければ、このところ続いていた疲労の蓄積が、じょじょに血管をむしばんでいたかもしれなかった。
意識はあったが、動けない。妻に助けられ、毎月かかっている東部医療センターへと、タクシーを飛ばした。
東部医療センターへ入院
しばらくして、担当医から病状の説明があったらしい。あとで妻から聞いた。
「左側の脳の毛細血管が破れ、二センチぐらいの出血斑がでています。直ちに止血の処置をしましたが、止まるかどうか分かりません。これ以上に出血が続くと、命の危険があります。もうお歳ですから、手術はしません。延命治療もしません」
担当医にそう言われ、仰天した妻はその場で長男と次男の家に電話。翌日の午後から夕方にかけて、長男一家や次男の嫁が駆けつける始末。二日後には、ジャカルタ住まいの次男までが顔を見せた。やや口の不自由はあったが、みんなと話ができたのは、不幸中の幸であった。
運よく、出血は止まったが、数日は点滴を受けたまま、動くことを禁じられる。
「病名は〈高血圧性脳内出血〉です」
そう言って、担当医はこの病気について書かれた印刷物を妻に渡した。後ほどわたしもそれを読んだが、真性の〈高血圧性脳内出血〉は一週間以内に患者の15%が死に、一か月以内に25%が死ぬといわれ、助かった人でも、半数は一年以内に再発すると書かれている。あらためて、病状の重篤さを認識した。
「安藤さんの場合は、出血も少なく、すぐに止まったのでよかったですね。でも、これからが勝負ですから、安心してはいけませんよ」
担当医が家族の者にそう言うのを聞いて、わたしは生きながらえた幸運を感謝した。長男や次男の家族も、ひとまず危機は脱したとして、次々帰って行った。だが、わたしの右半分の手足は痺れたままだし,言葉も自由に使いこなせなかった。
しばらく経つとリハビリが始まった。右手には、箸や鉛筆を握る力が失われており、その回復のため粘土をこねたり、洗濯ばさみを動かしたりした。不自由な右足は、廊下でウオーキングをしたり、リハビリ室で自転車をこいだりして、しだいに動かせるようになっていった
そうして二週間ほどすると、担当医から転院の話を持ちだされた。体力は大分ついたものの、やはりリハビリ専門の病院で治療を受けたほうがいい、というのである。
CTを撮ってもらうと、二センチ大の出血斑は半分の一センチ大に縮小していた。それも二、三か月で、消滅するだろうという。
一日も早いほうがよいというので、二月二十八日、東部医療センターを出た。十七日間の入院であった。
リハビリ病院での治療
転院先は、上社にあるメイトウ・ホスピタル。リハビリを重点的に行っている病院である。
ところが、ここでゆっくりリハビリができると思ったのが誤算のもと、きびしい入院生活が待ちかまえていた。やりかけの仕事が追いかけてきたのである。
実は倒れる前に、K社へは校正済みの初校原稿を送っていたのであるが、それをもとに組み直した新しいゲラが送り返され、二週間で再校せよといってきている。二百四、五十ページもあるゲラを、入院加療中のわたしが再校正できるはずがない。
ここで、妻の獅子奮迅の活躍がはじまるのである。彼女は病院から帰宅後、毎晩十二時近くまで校正作業に没頭し、翌日、鉛筆で訂正・加筆した原稿を数十枚わたしの所へもってくる。それをベッドの上で見て、わたしはさらに筆を加えるという仕事をする。その間、メールのやりとりや調べもののために,許可をもらって自宅に外泊したこともあった。こうして、校正は十日ほどでようやく完了した。
むろん、その間わたしは一日三、四時間のリハビリを続けている。看護師や療法士などは、病人だてらに病床にまで仕事を持ち込む様子に呆れながらも、親切に協力してくれた。
さすがリハビリ専門だけあって、ここでの治療は〈言語〉、〈手〉、〈足〉の三部門に分かれ、それぞれが三十分から六十分ぐらいの時間単位で、一日三~四時間の訓練が行われていた。
東部医療センターになかった言語部門の機能回復は、発声練習から記憶訓練におよび、発音も効あってか次第にハッキリしはじめ、記憶の回路も繋がりはじめた。
〈手〉の療法では、文字の書き取りやパソコンの文字転換を中心に行われたし、一方〈足〉では、下肢のマッサージや歩道でのウオーキングが日課になっていた。
そんな毎日を過ごしながら、わたしの体調は日一日とよくなっていき、すでに早い春の兆しが感じられた三月二十四日、無事退院できた。
新しい毎日がはじまったがー
居間のソファーに横たわりながら回想に耽っていると、妻が話しかけてきた。
「どちらの病院の看護師さんも療法士さんも、ほんとに親切でしたね」
妻の言葉に相づちを打ちながら、わたしはマスコミなどではよく入院患者への虐待が報じられたが,そんなことは別世界の出来事にちがいないと考えていた。
「親切といえば、見舞いにきてくれた人のことも思いだすね」
とくに、忙しい中をわざわざ立ち寄ってくれた多くの友人、知人、また手紙やメールで励ましてくれた方々への感謝の気持ちは、今なお消えない。
「キミにも、ありがとうと言わなくてはねー」
そう妻に語りかけながらも、それだけでは言葉不足であることを痛感していた。慌ただしかった校正作業もさることながら、入院いらい一日も欠かさず見舞ってくれた妻の労苦には、いくら感謝しても仕切れないであろう。
「家の中、無茶苦茶になってるでしょ。でも、あなたが戻ってくるというのに、片付ける気にならないの。ご免ね」
「疲れたんだよ。オレの入院中、ほんとによくやってくれたからね」
仕事がすんで、かえって妻は元気を無くしているようだ。エネルギーを使い果たしたのか。妻の今後が心配でもある。
同じ悩みをわたしも持っている。家でのリハビリも、何となくやる気がしない。あの忙しかったころ、仕事を抱え悪戦苦闘した入院生活が、今では懐かしい気がする。
「せっかく生きながらえた命だー。もう少し頑張らなくちゃー。取りあえず、久しぶりに自分史でも書いてみるか」
心につぶやきながら、おそるおそるキーボードを叩く指には,まだ痛みが残っていた。
(平成三十年四月)