ロマンチシズムの敗北
安藤 邦男
N高校の定時制に勤めていたころ、一人の生徒が自殺した。生徒会長も務め、愛知県を代表して全国弁論大会に出場したこともある優秀な生徒であった。
定時制高校を卒業して、これから新しい人生が開けると思われた矢先の彼の死であった。全校生徒が驚き、わたし自身も大きな衝撃を受けた。
その間の事情については、自分史「わが人生の歩み」(11号)(平成十九年四月記)に、わたしは次のように書いている。
「生徒会新聞に私は《ロマンチシズムの敗北》と題して寄稿した。自分としては、彼の死を悼み、もっと現実的になれと、ほかの生徒たちに呼びかけたつもりであった。だが、彼の親友Tにはそれが伝わらなかった。
『評論家気取りで、彼の死を一般化しないでください。先生なんかに、彼の苦しみが判るもんですか』と、抗議する彼の目には、光るものがあった。
人の死を教材にすることの不遜を私は恥じた。そして生徒の心をくみ取れなかった教師の限界を感じ、無力感に襲われた。」
いま手元にあるその時の生徒会新聞には、2号にわたってわたしのエッセイが掲載されている。読み返しても、T君の抗議は痛いようにわかる。懺悔の気持ちを込めて、その全文を次に発表することにした。
* * * * * * * * *
いかめしい題名をつけて少なからず気がひけますが、私がここでみなさんにお話しようとすることは、決して高尚なことでも難解なことでもない、日頃みなさんがいわば肌の感覚でもってじかに体験していることなのです。それを今から少しばかり論理の言葉に翻訳しょうというだけですが、うまくお話し出来るかどうか、ともかく始めてみましょう。
私にこの題名の意味を痛ましい実感をもって思い知らせたのは、A君の自殺でした。A君があのように死をえらんだ理由はいろいろ考えられるでしょうが、私はなによりもA君のあまりにも純粋なロマンチシズムがそれを否定する現実の圧倒的な力の前に、はかなくも破れ去ったがためではないかと思います。A君の生前の手記(ともしび2号記載)はこの間の事情を明白に物語っております。
「できれば自己を無限の存在と信じたい」彼が、「自己を押し通すにはこの現実はあまりにも厳しい」ことを悟って、あらためて現実における自己を見なおしたとき、彼は避けがたく自己に対して「有限意識」を持たざるをえなかったとあります。にもかかわらず、若いA君は自由と可能性を求めて、「有限意識を離脱し無限意識へ一歩進展」しようとしました。そして次にあるものが、死であったとはー。
A君のいう「有限意識」がリアリズムの特性であるとすれば、「無限意識」は明らかにロマンチシズムの精神であります。A君の悲劇はあまりにも純粋にロマンチシズムのみを求めたことにあるようです。きびしい現実の世界においてロマンチシズムが存続するためには、どうしてもリアリズムの精神を取り入れなければなりません。「柳に雪折れ無し」というように、たわむことを知らぬ喬木はかえって風雪に弱い。A君の死はいわば一身に現実の風雪を受けとめ、ついにその圧力に抗しきれず、ポキリと折れた喬木の痛々しさを感じさせます。それはA君の敗北というよりも、むしろロマンチシズム自身の敗北といえましょう。
いったいロマンチシズムとは何でしょうか。それは夢といってもいい、理想といってもいい、とにかく現実には存在しない「はるかなるもの」に対する憧れとでもいえると思います。
昔から、ロマンチックといわれる文学の多くが、未来に対する輝かしい夢や過去に対する美しい追憶を描いているのも、結局、現実の暗さ、社会の苦しさに窒息しかけた人間の魂が、あらゆる束縛を断ち切って、果しない時間と空間のかなたに飛び去らねばならなかったことを示しています。
このことからでも明らかなように、ロマンチシズムは現実から遊離しようとする精神であります。しかし、現実から「遊離」しようとする精神は、決して現実から「逃避」しようとする精神と同じではないのです。ロマンチシズムが現実から離れるのは、そうすることによってかえって現実に働きかける力を得ようとするからです。
ロマンチシズムは夢を見るといいますが、しかし夢を見るもののみが現実に何かを加えることができるのです。ロマンチシズムの意義はそこにあるといえましょう。ただ、夢はそれ自身阿片のごとく甘美であり、しばしば人に現実を忘れさせます。ロマンチシズムに現実逃避の危険があるのはそのためであリます。
さて、ロマンチシズムは現実に働きかけるために現実から離れるといいましたが、このことがまさにロマンチシズムを短命に終わらせるように、条件付けているのです。なぜかといえば、単に離れているものはいつまでも行動の手がかりを掴むことができず、現実に働きかけるためには、現実より高い理想の世界にあるものが再び現実に降り立たねばならないのであります。そのとき、ロマンチシズムはもはやリアリズムに変質しているといえます。
これはロマンチシズムの敗北であると同時に、その勝利でもあるでしょう。なぜなら、リアリズムを生むことこそロマンチシズムの一大使命だからです。もしもロマンチシズムがこの変質を拒むとすれば、結果はどうなるのでしょうか。それは、必然的に現実を逃避せざるを得ないか、さもなければA君の場合のように、ロマンチシズムの精神自身があえなく死滅するよりほか、道がないのであります。
それでは、個人と社会との矛盾の激しい現代において、皆さんのようなロマンチシズムの世代はいかに生きたらよいでしょうか。この大きな問題はまた次の機会にお話しすることにして、今回はひとまずこれで終わろうと思います。
A君の死を悼みながらこの文章を書きました。心からご冥福を祈ります。
「名西の灯」名古屋西高等学校定時制課程新聞部(昭和三十年六月・十一月)
(平成三十年二月)