米寿の祝いはサプライズの連続だった 安藤 邦男

    (一)長男と次男への感謝状

 乾杯を済ませ、宴も半ばになった頃を見計らって、わたしは用意してきた自家製の額入り感謝状を読み上げ、長男と次男にそれぞれ手渡した。

          感謝状 

長男一家(及び次男一家)の皆様

今年目出度く米寿を迎え、祝賀の宴を催して頂いたこと、誠に有り難く思い

ます。また貴一家の活躍と健康とくに孫たちの成長は、我ら両親の喜びでも

あります。よってここに感謝の意を表し、米寿記念として金一封を贈ります。

「ゆずり葉や 米寿のうたげ 子と孫と」 邦男

() ゆずり葉は芽の成長を待って旧葉が落ちるので、この名がある。

  平成二十九年十二月三十日、八十八歳の翁

さて、ここは名古屋観光ホテルのレストランの一室である。長男と次男の家族を含めて総勢十名が席についていた。

この米寿の祝賀会の日程と会場を決めるには、かなりの紆余曲折があった。ジャカルタ駐在の次男の一時帰郷を優先するとしても、全員参加を目指すからには、あちら立てればこちら立たずで、けっきょく落ち着いた日程は、年末三十日となった。

 会場も、関西方面の温泉地や娯楽場も候補に挙がったが、大阪住まいの長男と東京住まいの次男のそれぞれの家族の都合も考慮したあげくの折衷案は、名古屋のホテルでの祝賀会となって落着したのであった。

  (二)新たに社会人になる孫へ贈る言葉

 額入りの感謝状は彼らにとってはサプライズであったらしく、感無量の面持ちが見て取れた。その余韻の収まらぬなか、わたしはさらに、この四月に社会人になる孫息子に贈るために、用意してきた餞(はなむけ)の言葉を読んでやった。

 卒業お目出とう。そして新しい会社への入社、お目出とう。

私が君に初めて会ったのは、私が学生たちを連れてカナダへ語学留学をしていた平成七年の夏の時期だった。逗留していた宿舎へ、両親に連れられて君はやって来た。

君はその年の春、生まれたばかりのはずだったから、たぶん生後三、四か月だったと思う。人形のようにかわいい子だった。宿舎へ一晩泊まり、翌日その辺を観光して帰っていったことを憶えている。

さらに君の思い出といえば、君の家に泊めてもらったとき、多分君が四、五歳の頃だと思うが、君がお母さんに対して「命令しないでよ」と言ったことを思いだす。そんな頃から、もう君には自主性が芽生えていたんだなと思う。

やはりそんな頃だが、谷川俊太郎の詩をすらすらとそらんじたことがある。それを聞いて、私はこの子はすごい詩人になるのではないかと思ったものだ。

また、私が前立腺の手術を神奈川県の東海大病院で受け、一ヶ月君の家で厄介になったことがあるが、そんな頃いつも療養のために散歩にでると、君は犬と共に私の散歩に付き合ってくれたことを思いだす。優しい、思いやりのある子だった。

さて、君は両親の愛に恵まれ、また君自身の努力の甲斐もあって、無事大学を卒業し、四月からは新しい社会人となる。

人生の先輩として一言言っておきたいことは、学生生活と社会人生活とは月とスッポンぐらい、物凄い差があるということだ。そしてその変わり目の時期は、人生最大の難所である。五月病という言葉があるが、新人の社会人の多くがかかる病気だ。いいかげんな気持ちでいるとかならずこの病気になる。

五月病にならないためには、その前の三月までに、新生活に備えて、体と心の準備を万全にしておくことだ。朝は五時には起きる、夜更かしはしない、食事は規則正しくする、そんな日常生活はもちろん、新しく入る会社の勉強もしっかりしておくことだ。

君には英語の実力があるし、創造力も、適応力もある。輝かしい将来が開けている。

羽ばたけ、未来に向かって! これが私の君へ贈る言葉である。

(三)妻への感謝状

 そして最後に、妻にも秘してひそかに書いた文章を、わたしは一同の前に披露した。

 本日、米寿を記念して、皆さんに感謝状を進呈しましたが、ここにもう一人、忘れてはならない人がいました。それはわが妻のことです。皆さんにとっては、母であり、祖母である人です。この場を借りて、その人への感謝の気持ちを伝えたいと思います。

わが妻よ、貴女は、私が米寿を迎えるまで生き延びることのできた最大の功労者であり、恩人であります。

思えば、私たちが一九五九年(昭和三十四年)に結婚して以来、すでに五十八年を数えました。生来、私はあまり身体が丈夫でなかったせいで、よく病気をしましたが、とくに近年には前立腺ガンを患ったうえ、現在は腎臓病や心臓疾患などをかかえ、医者通いをつづけている身です。

その間に、貴女は元看護婦のノウハウを生かして、私の健康のために万全の尽力をしてくれました。貴女の手厚い世話がなければ、私はとっくにあの世へ行っていたと思います。この歳まで生き延びることのできたのは、百パーセント貴女のお陰だと感謝しています。

だが、私は平素、貴女に感謝の言葉をあまりかけたことはなかったし、それどころか食事どき、私の手からビールを取り上げる貴女に、怒りの言葉を投げつけたりもしました。でも、心の奥ではそのお陰で健康が維持できていると思って、心の中では手を合わせていたのです。

ただ、謝意や愛情を言葉として率直に表現できないのが、昭和一桁生まれの悲しい性(さが)です。

そういえば、貴女はいつも愚痴っていましたね。

「一度でいいから『愛している』と言われたかったし、一通でもいいから、ラブレターというものを貰いたかった」と。

私たち世代の男は、愛を口にすることをはばかるのです。愛は言葉にしなくても心で通じると思っているのです。いや、愛は強ければ強いほど、言葉には出ないものだとも思っています。昔のことわざにも、「鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」というではないですか。

そういうわけで、私は貴女に愛の言葉をかけたことはなかった。だが今、八十八歳の米寿を迎え、いつ死ぬともかぎらない我が身のことを考えると、愛の気持ちと感謝の言葉をこの機会にぜひとも伝えておかなければならないと決めたのです。

思い起こせば、貴女は、私が大学を卒業して、初めて受けもった定時制高校のクラスの中にいました。三つ編みの髪を垂らした、切れ長の大きな目の女の子でした。看護婦学校を出てきているので、中学から進級した生徒より二年歳上であっただけに、落ち着いて、姉さんタイプの生徒だったことを憶えています。そんな貴女は学年を代表していろんな活動をしてくれました。

だが貴女の在学中、私は貴女と終生を共にすることになるとは夢にも思いませんでした。数多い生徒の中の、真面目で良くできる一人の生徒ぐらいにしか、意識していませんでした。

 その私が貴女と付き合うようになったのには、貴女も覚えていると思いますが、一つの事件があったのです。

貴女たちの学年が卒業すると同時に、私は同じ高校の定時制から全日制の教師生活に変わっていました。そんな生活を始めて、数ヶ月経ったころだったでしょうか。或る日の授業後、貴女も教わったYという同僚の先生と、笹島辺りの飲み屋で飲んでいました。

ところが勘定のとき、互いに相手の懐を当てにしていたのか、二人合わせても金が足らないことに気づいたのです。

「大変だ、どうしよう」

と話し合っているうちに、Y先生は運良く卒業生名簿を持っていることに気がつき、それを見ると貴女が近くの病院に勤めていることが分かったのです。

「今度も、元室長の彼女に助けてもらったらー」

そう焚きつけるY先生は、彼女が担任の私を助けていろいろなことをしてくれたことを知っていたのです。その言葉に乗って、私はさっそく貴女に電話しました。

そういうわけで、やって来た貴女に勘定を負担してもらって、その場を無事に切り抜けたのでしたね。

それから貴女とのつき合いが始まったのですが、いろいろなことがありました。

それは省くとして、私が貴女との結婚を決意したときのことは、話さなければなりません。あれは、伊勢湾台風のときでした。

死者が五千人以上という台風の翌日、貴女は市電がまだ回復していない中をどうしてやって来たのか知らないのですが、幸い名鉄電車は動いていたので、それを利用してはるばる遠い春日井の実家まで駆けつけてくれたのには、感激しました。

そして春日井の実家で、倒れた木や鶏小屋の片付けを手伝ってくれましたね。私がこの人と生涯を共にしようと心に誓ったのは、そのときでした。

こうして結婚した私たちは、最初の有松団地から星ヶ丘団地へ、そして今の藤が丘の家へと転居を重ね、私が学校を四つ替わるあいだに、貴女は子育てと病院のパートタイムとに明け暮れる毎日でした。

いま思うと、私は仕事にかまけて、子育てや家事はいっさい貴女任せでありました。貴女は何の不平も言わず、私を支え、私についてきてくれました。

本当に貴女は、自分のことより子どものことや、夫のことを気遣う、情の深い女性でした。

思いだしますが、子どもたちが巣立ってからは、私が職場から藤が丘駅についてカエルコールをすると、雨の日も風の日も、かならず駅まで迎えにきてくれましたね。

今でも、毎晩、貴女は手動のマッサージ機で私の足のマッサージをしてくれます。マッサージを受けながら、この幸せがいつまで続くのかと思うと、嬉しいと同時に不安な気持ちにも苛まれます。

私は貴女を妻として選んだことを、わが人生最大の幸福だと思っています。どうかいつまでも元気に生きてください。私も生きるつもりですから。

この感謝状は、私が貴女に送る最初の、そして多分最後になるかも知れませんが、そんな思いを込めたラブレターのつもりです。

米寿を記念して私の思いを述べさせてもらいました。そして子供たちや孫たちにも、私の気持ちを聞いてもらうとともに、私たち夫婦の今日にいたるまでの経緯を披瀝させてもらいました。ありがとう。

米寿祝いの席に感謝を込めて、夫であり、父であり、祖父である翁記す。

 * * * * * * * * * * * 

 最後のページ辺りを読みすすんでいるとき、わたしは思わず何度も声をつまらせた。涙が自然に頬を伝わった。妻や子どもたちの前で、わたしが泣いたのは初めてであった。

老いがそうさせたためであろうか。いや、多分それは、俳優が自らの演技に感動して涙するように、子どもや孫の前で初めておこなった過去の経緯と現在の心情の告白に、自らが感動したせいではなかったろうか。

 読み終わると、しばらく無言が続き、水洟をすする音だけが耳に響いた。

「わたし、このラブレターを一生の宝にします」

 妻の声が沈黙を破った。

 「おじいちゃん、お金無しで飲んじゃあ、ダメだよ」

 「二人とも、相手がお金を持ってると、思ったんだね―」

孫たちが囃し立てると、ようやく一座に明るい宴会の雰囲気がもどってきた。

「さあ今度は、私たちがおじいちゃんに贈り物をするね」

そういいながら、孫娘は紺色のメッセージ・ブックを手渡してくれた。開いてみると、「祝米寿」と題した家族一同の寄せ書きがあった。

「へえー、サプライズにサプライズのお返しだね。ありがとう」

と、わたしはふたたび目頭を熱くした。

こうして二時間にわたる祝宴は、幕を閉じたのである。

家に帰ると、小包が届いていた。開けてみるとびっくり、完成は来年になると聞いていたK出版の『やさしい英語のことわざ』第一巻が、燦然と輝いていた。

「ねえ、三度目のサプライズよ!」

孫たちの声を聞きながら、わたしは執筆に当たって何度も意見交換をした編集者YKさんの粋なはからいに感謝した。

そしてこの記念すべき感動の日は、生涯忘れることはないと肝に銘じたのであった。

            (平成三十年一月)