ヒゲを生やす          安藤 邦男
 

 「みっともないから剃りなさいよ,そんなヒゲ。十歳は老けて見えるわよ」

 妻はわたしの顔を見据えては、毎日のようにいう。この秋、わたしはヒゲを伸ばしはじめたからである。

 木曜日、久しぶりに体操教室に出かけた。

 「あら、おヒゲだ。いったいどうしたの?」

「あんがい似合うわよ」

「心境の変化?」

「失恋でもしたの?」

 仲間の女性たちが、口々にはやし立てる。面倒くさくなって,いい加減に答えた。

 「電気カミソリが壊れてね―」

 「ワー、そんなことー、がっかりネ。でも、おもしろーい。ハハハ」

 女性軍が喜びの声を上げる。

百五十人ほど収容できるアリーナは、まわりに階段席があって、そこに高年大学健康学科のOBたちが各期ごとに集まって座っている。わがクラスは八人、女性が七人で男はわたし一人。衆寡敵せず、である。

 翌月の日曜日、「いたどり会」が中日ビルであった。S高校の全日制で初めて受けもったクラスのOB会である。出席者はわれわれ夫婦を含めてちょうど三十人だった。

 開会宣言のあと、わたしは挨拶に立った。

 「早いもので、学年会が打ち上げになってクラス会に切り替わり、もう三年が経ったですネ。今回のクラス会は,皆さんが七十七歳の喜寿、わたしは八十八歳の米寿、まことにお目出度い会となりました」

 十一歳違いのわれわれは,奇しくも長寿祝いが重なったのである。さらに続ける。

 「ところで、先ほど何人かの人から、どうしてヒゲを伸ばしたのかと尋ねられたので、ここでお答えしておきましょう。それにはワケがあるのです」

「どんなワケですか?」

前の席にいた一人が問いかける。

「去年のこの会のときだったが、だれかが『せんせい、若く見えますね。どっちが先生でどっちが生徒か判らないくらい―』といったんです。少しは嬉しかったけれど、それよりやはり自分の貫禄の無さが情けなかった。それで、皆さんとの差をつけようと思ったのが、ヒゲだったのです」

 笑いが出た。さらに続ける。

 「ところがさっき、この会に初めて参加したSさんと入り口で話していたとき、彼女途中でわたしの話を遮って、『まあ、イヤだ。せんせいでしたのねー、わたし同級生だとばかり思って話していましたの』というんです。ヒゲの効果はゼロでしたー」

 こんどは笑いの渦だった。

 その帰り道、妻とのやりとりがあった。

 「ビゲを伸ばしても,みんな若いといってくれたよ」

 「脳天気ネエ。みんなおじょうずいってるのよ。幹事のIさんネ、正直な方だから、私に『やはり老けて見えますね』といっていましたヨ」

 「いいんだ。それが始めからの目的なんだから―」

と言いながらも、わたしは妻にも話していなかった本当の動機を思いだしていた。

 このところ、原稿書きの仕事が続いて、外出はすべて断り、部屋に閉じこもっていた。家にいるからには、お洒落する必要などまったくない。放置しておいたら、ヒゲは一センチ近く伸びてしまった。せっかく伸びたヒゲだ。ひとつ育ててやるかとフト思った。それだけの話である。

 そしていま、わたしは次にヒゲを剃り落とすのは、いつにしようかと考えている。

 

                          (平成二十九年十二月作品)