私は敗戦体験をこのように受けとった

                  安藤 邦男

           

最近本棚を整理していたら、今は亡き三輪幸夫君の編集・発行した同人誌『われらと』が出てきた。わたしは大学卒業直後、名古屋西高校定時制に就職したが、三輪君はそのときに教えた生徒のひとりで、卒業後は印刷業を営んでいた。

同人誌『われらと』(1号)は昭和三十四年の発行で、そこに『私は敗戦体験をこのように受け取った』と題する文章を書いている。三十歳そこそこの血気にはやる頃の手記である。気負いが感じられていささか面映ゆいが、勇を鼓して次に掲げることにする。 

  (1)軍国少年の夢破れて

なるほど、歴史的事実としての敗戦はすべての日本人にとって一様ではあるが、その受けとり方は世代によって、また個人によって、おそらく大きな相違があるであろう。とくに、現在二十代の後期から三十代の前期にかけての私たちの世代は、敗戦を迎えた時期が十五歳から二十歳までの、いわゆる人間形成期にあたっていた。私たちは文字通り敗戦経験を通して、人間形成をおこなってきたといえる。

その意味で、私たちの世代ほど、敗戦経験が自己の内部でいまなお生きている世代は、ほかにないのではなかろうか。つまり、私たちにとって敗戦は単なる客観的事実であるというより、むしろ一つの主体的経験なのである。歴史の、あの激しかった変動が、そのまま自意識の歪曲として現在の意識につながり、私たちの思想や価値観を規定しているのである。

戦争の末期、中学生であった私は日本の必勝を信じていた。すでに、名古屋市の大半を焼かれていながら、私にはそれが優者の弱者にたいするハンディキャップぐらいにしか考えられなかった。日本軍は絶対に強く、そして絶対に正しいのである。私の友も、当時、続々と兵役に志願していった。軍国主義教育に関するかぎり、まことにこれはその完全な勝利といえるであろう。

そのような私たちにとって、敗戦の事実を知らされた八月十五日は、実に奇妙な日であった。第一、日本が敗れたという事実が信じられなかったし、それにもまして不思議であったのは、敗れても一向あわてない世間の姿であった。私は悲しかったというより、むしろ無性に腹が立った。日本が敗れたというそのことにたいしてか、また私たちを欺きつづけた大本営にたいしてか、それとも勝利を疑わなかった自分の愚かしさにたいしてか、多分そのいずれでもあったろう。

 しかし、敗戦の意味を批判的に考えるには、私はあまりにも幼かった。批判する前にまず順応するのが少年である。敗戦の日の異様な印象が、単なる過去の出来事として薄れるにつれ、私は以前に軍国主義教育を受け入れたのと同じ熱意をもって、今度は新しい民主主義教育を、それも甚だしい混乱をともなったまま、受け入れていった。

(2)社会不信から自己中心主義へ

たしかに、歴史は敗戦を境にして百八十度の転換をなした。しかし、私の主体的経験としての戦後はまだそのまま戦争体験と連続し、私の人間形成は敗戦前と敗戦後のいわば未分化に混在した体験を通しておこなわれていった。両者を分離しておのれの立場を自覚する時期は、中学を終え、高等専門学校に入学したときに始まる。

 すでに敗戦の日から、私の胸中には学校の教師にたいする不信の念が抜きがたくあった。自分たちの生命をかけてきたものが、まったくむなしいものであったと知ったとき、私たちの憤りがまず教師に向けられたのは当然である。戦時中「聖戦」を教えた教師たちは、戦後になると「侵略戦争」を唱えだしたのである。

 私は思った。「名誉の戦死」を「犬死」だというのは、ただ死者を鞭うつだけではないのか。しかも、教え子をして喜んで「犬死」するようにしむけたのは、ほかならぬ教師自身ではなかったか。私にとって、このような無責任な教師の態度は許すことができなかった。いや、彼らが戦後自殺もせず、べんべんと生きていること自体が、私には理解できなかったのだ。

 こうして、教師を通し、世のいわゆる大人たちに不信と反感をもった私は、さらにそのような大人たちによって動かされる政治と社会を、文字通り虚偽のかたまりと考えるようになった。一夜にして社会価値の変動するのを目の当たりにした私たちには、社会的な価値は信じたくとも信じることができなかった。この世界にもし信じ得るものがあるとすれば、それは自己のみであった。自己にたいしてのみ私は誠実であろう。これがその頃の私の生活の信条であった。

 このような道の行きつくところがデカダンスとニヒリズムであることは多言を要しまい。自己の肉体の感覚のみを信じるものにとって、社会的秩序とか社会的常識とかいう外的権威はまったく無意味であるだけでなく、学問や理性も、それが客観的なものであるだけいっそう肉体の感覚に遠く、それゆえに真実に遠いのである。なぜなら、真実はなによりもまず自己の主体的、直接的な経験の中に存在するからである。実際、その頃の私は学校の勉強をほとんど放棄して、文学や恋愛に熱中した。私はそれらのものを通して、人生には学問よりもっと大切なものがあるということ、そしてそれは真実の生き方を求めて苦悩することであるということを学んだように思う。

(3)自由と信じたものは歴史社会の必然であった

 やがて、私は大学の英文科へ籍をおいたのであるが、当時の私には自分の生きる道が文学以外にないような気がしていた。現実の世界がいかに虚偽に満ち、醜悪で覆われていようとも、少くとも文学の世界においてだけは、美と真実がその完全な姿で存在しているのではないか。そしてその美と真実を追求することで、自己をその世界の高さまでもたらすことが可能ではないか。

当時の私の興味と関心は、とくに世紀末の文学とその芸術至上主義者たち、オスカー・ワイルドやエドガー・アラン・ポーなどにあった。私が彼らと彼らの文学に深い共感をもったのは、そこに自分と共通の生き方を見出したからにほかならない。彼らの生き方を通して、私は自己をより深く知ろうと欲した。私が学問らしい学問に身を入れたのは、この時が最初であったといえるかも知れない。

 ところが、やがて私は彼らを研究するにつれて、彼らの生き方、彼らの思想、彼らの芸術が決して偶然に生れたものではなく、当時の社会情勢の必然によって生れるべくして生れたものであることに気づいた。この発見は私の生き方を根本的に改めさせるほど、私の思想と意識に致命的な衝撃を与えた。

 それまで、自己を偽らず、自己のみを信じ、すべての行為を自己の責任において果してきた私にとって、自己は絶対であった。私は自己の内的な自由を得るために、それを少しでも拘束する外的環境から、自己をきびしく切り離した。そうすることによって、私は同時に自己の純粋性が保証できると考えた。

このような私にとって、私の先輩である美の使徒たちの生き方そのものが、実は当時のヨーロッパの資本主義社会に固有なものであるという認識は、恐怖に近いものであった。社会の影響から自己を守るため、あらゆる外的なものを否定して社会から孤立し、自己にのみ生き、思索し、創作した世紀末の文学者たちの生き方は、実は歴史的社会がそうさせたのであった。彼らが社会を疎外したのではなく、社会が彼らを疎外したのである。ひとはいかに社会から自己を孤立させるとしても、その孤立の仕方そのものが社会的であるという事実からは逃れることができないのである。

 そうして、私はあらためて自己の生き方を考えてみた。私の生き方は、結局は軍国主義教育、敗戦、戦後の混乱という、一連の歴史的事実の中に、人間形成を行った戦後派固有のものでなかったか。自己の自由意思で選んだと信じて疑わなかった私の生き方は、実は歴史社会に生きる人間の必然の生き方ではなかったか。この意識は私の誇りを傷つけた。私は傷つけられた誇りをもって、今までの自己に復讐を企てるがごとく、歴史社会の勉強をはじめたのである。

   (4)自意識の世界から行動の世界へ

 このようにして、私の意識が自己の内部から歴史社会の広場へ出たときは、偶然にも自分自身が象牙の塔から実社会へ出たときであった。私がそこで自分の職業として選んだものが、かつて不信の念をいだいた教師であったというのも、皮肉な偶然であった。

もはや私は、教育そのものを否定するニヒリズムからは脱却していたが、まだ教育のもつ意義を積極的に評価していたわけではなかった。しかし、教育の社会にも押しよせた逆コースの波と、多くの問題をはらむ教育の現場とは、私の教育観を根本的にあらためる力をもっていた。それまで書物を通じて目覚めたに過ぎない社会意識と、知識の上からのみ求めた個人主義否定の原理を、私は教育現場の実践の中で鍛えなおさなければならなかったのである。

 さて、私はこのようにして、はじめ敗戦の事実を素朴に受けとって驚愕した一少年から出発し、敗戦体験を自覚するにつれて次第に社会的なものの不信から自意識の世界に閉じこもる青年になり、最後にこのような自己中心の生き方を生みだしたものが社会的なものであるという認識に至ったわけである。

 この最後の立場は、敗戦体験による自己の人間性の歪みを回復しようという意志に貫かれているかぎり、徹底的な自己否定の立場でなければならないであろう。そして自己否定の道は、安易な自己肯定の道とちがって、たしかに苦しいに違いない。しかし、自己を否定することなしにはいかなる意味の自己実現もないとすれば、否定すべき自己の大なるものにとっては、実現すべき自己もまた大なるはずである。このような自己改革の道を経ることによって、私たちの蒙ったむしろ不幸な世代的体験は、やがて歴史を動かす積極的モメントになるであろう。

            (平成二十七年十一月)