人間とAIとの勝負       安藤 邦男

 

数日前、東京の次男の嫁から電話があって、来年大卒予定の孫が外資系の会社に無事入社できたと知らせてきた。なかなか決まらなくてやっと、決まったという。

「入社試験も大変だね。早速、本人におめでとうといってやろう」

妻と話しながら、新聞に目をやると、今年の新卒者の採用試験の判定に、IBM開発の「ワトソン君」が使われているという記事が載っている。孫が「ワトソン君」のお世話になったかどうかは不明であるが、一般的にいってコンピュータはすでに資料の作成だけでなく、資料を判断する領域にまで侵入してきたようである。

だが一方では、機械が人を選ぶというと、複雑な気持ちになる。人間の評価を機械にまかせっぱなしにしていいかという心配である。

こんなことを危惧しながら、ネットで調べてみると、この「ワトソン君」、医療現場でも活躍し、患者の病名を特定するのにも役立っているという。

そういえば、NHKに「ドクターG」なる番組があり、患者の訴えるいろんな症状から研修医がその病名を推理するのだが、サスペンスドラマの謎解きにも似て、けっこう面白い。だが、これを見て思ったことは、こんな仕事はコンピュータにやらせれば百発百中ではないかということだ。でも、それでは番組にならないから、これはこれで存在価値があるというものだ。人間、間違えるから面白いのである。

話は違うが、最近、将棋界で中学生棋士、藤井聡太四段が二十九連勝してマスコミの話題をさらった。強さの秘密は、将棋のコンピュータ・ソフトと対戦を重ねてきたからだといわれる。すでに人間の能力を凌駕したコンピュータであればこその話であり、ことほどさように人工知能AIの実力はすごい。

一方、囲碁のソフトは将棋よりかなり遅れて開発されたので、わたしが初めて囲碁ソフトを使ったのは三十年ほど前であるが、その頃は二級程度の力しかなかった。だがそれから技術の進歩はすさまじく、今年、平成二十九年の四月には、世界最強と言われる中国の囲碁棋士、柯潔(かけつ)九段との三番碁に連勝し、名実ともに人類を追い越してしまった。

これらの出来事は、いろいろなことを教えている気がする。衆目の一致するところでは、AIはすでに人間の知能を上回っているということであり、事は勝負の世界に留まらず、いずれ人間は万事万端AIに頼らずには生活できなくなるだろうということである。

それはそれでいいことかもしれない。人間生活はますます便利に、快適になるであろうと予想されるからだ。

ところで話を囲碁に戻せば、わたしが現在持っている囲碁ソフトは数年前のものであるが、「世界最強、実力四段」と銘打ってある。ときどき画面に呼び出しては対局するが、なかなか強い。時には負けそうになるが、じつはこれまでわたしは負けたことがない。なぜかといえば、負けそうになると、盤面が不利になる前の段階にまでもどして、やり直すからである。ずるいと言えばずるいやり方であるが、相手が物言わぬ機械だからできる。

今日ではAIは教育界にも進出し、とくに自学自習用の学習ソフトとして多用されている。この種のソフト、いつでもどこでも相手になってくれるし、何度繰り返しても文句は言われない。反復練習にはうってつけの器具である。

いいことずくめのようだが、むろんマイナス面もある。学ぶ者に学習意欲がなければ、宝の持ち腐れになるということだ。AIはこちらが働きかければ応えてくれるが、向こうから働きかけてくれることはない。

その点、人間の先生は違う。強制するし、サボれば叱る。今はそうでもないが、昔はできの悪い生徒を立たせたり、悪さをすれば叩いたりしたものだ。だが、先生には学習ソフトに無い愛情がある。だから教え子は人間として育つのだ。

前述した藤井四段にしてもそうである。技術はパソコンで磨いたかもしれないが、豊かな人間性に裏打ちされた彼の実力は、師匠の杉本昌隆七段や同門の仲間たちのお陰であろう。

そんなことを考えると、やはり最後に勝つのはAIではなく、人間であろう。人間がAIをつくれても、AIは人間をつくれないからである。

   (平成二十九年九月)