わが人生の歩み(37)
バンクーバーでの語学研修に付き添う 安藤 邦男
平成七年、I学園の学制改革によって、短期大学の一般教育科が廃止された。一般教育科に所属していた教員は、短期大学の専門学科(保育科、食物科、生活文化科、英語科)と四年制大学の学部(法学部、経済学部、経営学部)のいずれかに配置転換されることになり、わたしは英語科に准教授として所属することになった。
ある日、英語科科長から話があった。
「六月から英語科学生の語学研修がカナダで始まるのですが、付き添って行ってくれませんか」
聞けば、付き添い業務は六十五歳までとなっていて、わたしはちょうどその年齢制限の上限に当たるから、是非いって欲しいという。転科早々、わたしは大きな仕事を引け受けることになった。
英語科では、毎年学生の希望者を募って、バンクーバーにある英語専門学校で、一ヶ月の語学研修をおこなっていた。その学生たちを引率して、わたしは教授のTさんと二人でバンクーバーに行くことになったのである。もっともTさんはこの引率の経験者なので、わたしは彼の指示にしたがえばよいという気楽さはあった。
こういうわけで、わたしは平成七年六月二十六日から七月二十四日まで、約一ヶ月間カナダに滞在した。
学生が英語研修を受けた施設は、UBC(ブリティッシュ・コロンビア大学)の構内にある付属英語専門学校(イングリッシュ・ランゲッジ・インスティチュート)である。
UBCには、この英語専門学校のほか、大学院をはじめ十二学部があり、常時三万人以上の学生が学び、サマーセッションだけでも一万五千人が勉強しているという。われわれの逗留した時期は、すでに夏休みに入っているにもかかわらず、キャンパスには学生があふれていた。とくに目立ったのは、日本人を始め中国人などのアジア系の学生が多いことである。それは、なにも学生たちに限ったことではない。われわれを受け入れてくれたホストファミリーも、ヨーロッパ系のほかに、中国系、フィリピン系、インド系とさまざまであった。
このホストファミリーは英語専門学校の近くにあって、われわれの引率した学生はここにホームステイをし、英語専門学校に通うのである。一方、われわれ二人の引率者はI学園が所有する近くのハウスに宿泊し、毎日、学生の授業や生活の状況を把握しながら、彼女らの世話をしたり相談に乗ったりした。
授業のない土日の休日やカナダ・デ―などの祝祭日には、旅行会社の企画する見学会や小旅行に付き添い、けっこう忙しい毎日を送った。
(二)追突事故に遭う
バンクーバーに着いてから、数日後のことである。夕食をTさんと近くの寿司店で取った後、彼の運転する車で駐車場を出ようとして一時停車したとき、後ろから来た車がわれわれの車に追突した。かなりのショックだったが、若い女性の運転する車は一言の挨拶もなく、そのまま走り去ってしまった。なんたる無礼と、頭にきたTさんはすかさず追いかけ、交差点で停まったその車の前に回り込んで駐車した。
降りて調べると、バンパーがかなり傷ついている。車はレンタカーなので、Tさんは女性にそこで待つようにいい、そのままレンタカー会社へ電話するために、公衆電話を探しにその場を離れた。
わたしはその場で待つしかなかったが、Tさんはなかなか戻らない。そのうちに若い女性はどこかへ行き,たぶん近くの店からであろう、身内とおぼしき中国系の男たちを三人連れてもどってきた。
いきなり若い男が早口の英語でまくしたてる。
「どうして大の男が若い女を苛めるのだ」
「追突して逃げるなんて、悪い女だ。文句をいうのは当たり前だ」と、応酬する。
「キミたちの方が悪い。ここは日本じゃない,カナダだ」
といい返えしてきた。何がカナダかよく分からないが、どうやらバンパーぐらいの傷で騒ぐなといいたいようだ。大声を出すので,こちらも負けじとばかり大声で、
「追突したほうが悪いに決まっている、悪いのは女だ」
と頑張る。場所は混雑する交差点付近。野次馬が何人も現れ、「女のほうが悪い」と加勢してくれる。
そのうち父親らしいのが、カメラで証拠写真を撮りはじめる。こちらも負けないぞ、とばかりに、相手の車の番号を控える。Tさんはなかなか戻らない。十分ほどすると相手もしびれを切らし,若い男は女を乗せたまま、あっという間に立ち去った。
残った中年の男に「なぜ逃げるのか」というと,「急いでいるからこれ以上待てない。警察へ知らせたければ知らせるがいい」といい残して、残りの二人も引き上げてしまった。
やっと戻ってきたTさんの言うには、レンタカーショップは「保険つきだから心配するな」といったという。これで一件落着だったが、それにしても後味の悪い事件であった。
そのとき思いだしたのは、ヨーロッパ旅行のとき、フランスで目撃した出来事だった。ぎっしり路上駐車していた自家用車の一台が出るにでられず、前後の車をバンパーで追突させ、隙間をつくって出ていった光景だった。考えてみれば、バンパーは衝撃を和らげるために造られたものだから、少しぐらい物が当たるのは当然だと、彼らは思っているようであった。
(三)外国人を受け入れるカナダ人
この事件には後日談がある。翌日、Tさんは事故報告のために市の警察署を訪れたのだが、署の駐車場に駐車しようとしたとき、バンクーバー市民以外は駐車お断りといわれたという。Tさんは追突事件といい、駐車拒否事件といい、納得がいかないままに、現地の新聞に英文で投書した。大意は次の通りである。
「ここで私たちは二度ひどい扱いを受けた。一度は車に追突され、その車はなんの挨拶も謝罪も無く逃げたことであり、もう一つは、警察の駐車場で、バンクーバー市民以外は駐車禁止という差別待遇を受けたことである。バンクーバー市民の方には先ほどの阪神大震災のときは援助して頂いたし、日本人学生の語学留学は進んで受け入れてもらっている。バンクーパーの人たちは親切で礼儀正しい人たちだと思っていた。しかし今回、その思いを裏切られ、残念である」
それに対して、すぐに反響があり、以下の趣旨の投書が載った。
「一部の心ない者が、日本人の短期滞在者の心を傷つけたことを、深くお詫びする。バンクーバー市民よ、こんなことが二度と起こらないように、気をつけよう。我々は人種や国籍の違う人たちを喜んで受け入れてきた。そんな歴史を汚さないようにしようではないか」
確かに、追突事故を起こした若い娘とその一族の無礼な言動や、警察署の駐車場での差別的扱いなど、不愉快な出来事だったが、Tさんの投書に対してすぐに反応、彼らに代わって謝罪する態度には、カナダ国民の善意が表れている。英語専門学校の講師たちの何人かもその事件を話題にし、慰めてたりしてくれた。
思えばバンクーバーには、外人旅行者も多いし、さまざまな人種もいる。この国は、アメリカに劣らず人種のルツボである。当然、異人種間のトラブルも見聞した。しかし、同時に人種の違いを越え、お互いに協調しようとする努力がいたるところでなされていた。そうしなければ、習慣も文化も違う異民族が同じ社会で暮らしていけるはずがない。今回の事件で、わたしはそのことを痛感した。
(四)すでに始まっていた情報化社会
この付き添い旅行で、Tさんもわたしもノートパソコンを持参した。
日本では、インターネットは一般にはまだ普及しておらず、Eメールもなかった時代である。わたしはパソコンをワープロ代わりに使って、語学研修の毎日の様子を詳細に記録した。帰国後、その記録を英語科に提出したところ、次年度以降の行事に大いに役立つと、お褒めの言葉を頂いた。
一方、Tさんはコンピュータの講義をするほどの技術の持ち主だったので、アメリカのネット会社のIDを取得しており、英語専門学校の講師たちとのコミュニケーションをメールでやりとりしていた。
Tさんによれば、語学講師たちは一人一台のパソコンを所有し、日常の資料作成だけでなく、お互いの連絡をすべてメールでしていると聞いて、驚いた記憶がある。これは、LANと呼ばれる小規模のインターネットで、その後驚異的に発達したインターネット事業の先駆けをなすものであった。
日本が今日のように、インターネットで情報を得たり、メ―ルなどで意思交換をしたりする情報化時代を迎えるのは、それから十年ほど後になってからである。