わが人生の歩み(36

― 研究生活の始まり ―          安藤 邦男

 

勤めはじめて暫く経ったころ、学園の食堂である教授と同席したことがあった。話をしていて判ったことだが、彼はわたしの大学時代の友人Kと同じ中学の同級生で、年齢もわたしと同じだということだった。そんなこともあって、気楽に話がはずんだ。

「大学の教師という職業は自由でね、一度やったら辞められませんよ」

実直な人柄なので、意図的にもじったわけではないと思われるが、その言葉の裏には「乞食と坊主は三日やったらやめられない」ということわざのエコーがある。

このことわざ、「坊主」の代わりに「医者」や「役者」が使われることもあるが、いずれも自由の身で、しかも実入りも悪くないという共通点がある。しかも、乞食を引き合いに出して皮肉ったところに、当時の民衆の嫉妬と怨嗟が感じられて面白い。そうか、大学の先生も同類なんだと、わたしの気持ちは複雑だった。

たしかに、その教授のいうように、学園は自由であった。週に三日、一日に二コマの授業をすれば、あとは無罪放免である。ここでは、高校のときのような事務仕事もなければ、学生指導もない。

ただ、通勤は市外なので、片道二時間、往復四時間かかる。それが苦痛といえばいえるが、ラッシュアワーを避けて時間割を組んでくれるので、市電も郊外電車も座る余裕がある。お陰で車内では、毎週一冊は読書ができ、遠距離通勤も悪くないなと、かえって有りがたくさえ思った。

有りがたいと言えば、自由に使える個人研究費も予想以上に潤沢で、遠距離出張にも使えるが、わたしはほとんどパソコン・ソフトと書籍購入に用立てていた。

だが、「好事、魔多し」という。年が明け、一月末の定期試験のはじまる前、突如、わたしは病魔に襲われた。肺炎である。まるで、自分のいい気になった思い上がりに下された天罰のようであった。

原因としては、やはり精神的・肉体的な過労以外、思い当たるフシはなかった。

 四十年にわたる高校教師時代のしきたりで培われた習性は、牢固としてわが心身に根づいていた。それが、まったく新しい環境に抛りこまれたのだから、いくら自由だとはいえ、適応するにはそれなりの苦労があった。それがストレスになったのは確かだと思う。

 もう一つのストレスは、研究論文であった。

「老教授のなかには、もう三年も論文を書いていない人もいますが、先生は新しい人ですから、毎年一編は書いてください」

研究誌編集の教授からは、そう念を押されていた。毎年一編の論文を書いて学園の研究誌に発表するのが、どうやら不文律のようであった。その締め切りが年度末に迫っていたのである。

実は、その年の夏休みは高校退職後初めてのこととて、妻と北海道や京都への旅行を楽しんだり、予備校の夏期講座を担当したりして、充実した時間を過ごしていた。忘れていたわけではなかったが、余暇のエンジョイが忙しく、論文に取りかかったのが九月になってからであった。

テーマは決まっていた。学生のとき卒論に書いたエドガー・アラン・ポオをこの機会にもう一度取りあげ、あのときとは違った角度から掘り下げてみたかったのである。

昭和二十七年の卒業論文では、ポオの文学を詩と科学という異質の精神の産物として捉え、後に新しい象徴主義運動を呼び起こした彼の詩作品や、世界初の推理小説とされる『モルグ街の殺人』などの探偵ものが、なぜ当時の先進国のヨーロッパでなく後進国アメリカの土壌の中で生まれたか、その謎を解明しようとした。

それから四十年も経っていた。あのころ流行っていたヘーゲルやマルクスの哲学はもはや時代遅れのものとなり、かわってソシュールを起源とする構造主義やポスト構造主義、ニュークリチシズム、記号論など、種々の新しい哲学が学会や論壇を賑わしていた。これらの思想や哲学を文芸批評の領域にかぎって言えば、そこに共通するものは、作品をそれが生み出した背景や歴史から切り離し、テキストそのものとして批評するという方法であった。

歴史を捨てたわけではなかったが、それらの近代思想の影響は無視できず、わたしはポオの作品を作品そのものとしてもう一度読み直す必要を痛感し、近代批評の方法を援用して、テキスト自体の論評を目指すことにした。

テーマが大きすぎたこともあって、いよいよ本格的に論文作成にとりかかるときになって、はじめてわたしは時間の不足を思い知らされた。資料を渉猟し、読書と思索にふけりながら深夜までパソコンをたたいた。年末年始に息子や孫たちがやってきたときも、仕事部屋に閉じこもっていたことが多かった。

そんな無理がたたったのだろう、年が明けてしばらくして風邪をひき、熱が下がらず、近医を訪れると、肺炎だという。一か月ほど寝込んでしまった。

一月末に行われた期末試験の問題は、すでに教務部に印刷を頼んであったので、業務に差し支えなかったのが唯一の救いであった。

三月になって、病後の身体に鞭打ちながら、ようやく論文は完成した。題して「『大鴉(おおがらす)』におけるポオの方法」である。前書きには、次のように記した。

 

この論文は、ポオの長詩『大鴉』とその一年後に書かれた彼の評論『構成の哲理』とを比較し、ポーの創作の秘密に迫ろうとしたものである。ポオは『構成の哲理』のなかで『大鴉』のテーマ、プロット、リフレイン等はすべて厳密な計算に基づいて書いたと主張しているが、しかし当の『大鴉』自体は、明らかに彼の言葉を裏切り、彼の意識的、分析的知性を超えた或るものになっている。ここに文学における無意識の問題が浮かび上がる。本稿は、ポオの無意識が言語表現においていかに暗示的意味を獲得していくことになるのかを、『大鴉』を中心に追求したものである。またここでポオが、Nevermore という、意味から切り離された音としての言葉の美しさを発見したことが、二十世紀言語理論や批評理論につながる新しい地平を切り開くことになったことにも触れている。

 

少々判りにくいが、中身を読んでくれれば判るという気負いの漲る文章である。敢えてこのつたない前書きを晒したのは、このあと四年間ポオに取り憑かれた男の、これがいわば血気にはやる自画像だったからである。

この論文を皮切りに、わたしはそれから毎年一編ずつ論文を書くことになり、学生のときいらい長い間忘れていた研究生活が再び本格化したことを自覚した。そしてこの職場での生活は、当初思ったほど暇でないこと、それどころかある意味ではむしろ忙しく、無為に過ごす時間などほとんどないことを、遅まきながら痛感していたのである。

    (平成二十九年五月)