このごろ思うこと         安藤 邦男

   「さまざまのこと思い出す桜かな」

 ご存じ、芭蕉の句である。いま、桜が満開のときを迎えようとしている。わたしの頭も、冬眠から目覚め始めたのか、さまざまなことを思い出している。脈絡もないままに、それらを綴って見よう。

当節、テレビや新聞の報じる政治がらみのニュースに嵌まっている。スポーツや芸能関係の番組から遠ざかっている老体にとって、内外の表舞台で演じられる政治ショーは、そういっては憂国の士の顰蹙を買うかもしれないが、まことに傍観者的興味を掻きたてずにはおかない。

 森友学園への国有地払い下げをはじめ、豊洲移転、福島原発等々、早急に解決を迫られている問題が山積している。国外に目を転じれば、ここでもまた北朝鮮の核弾道、金正男暗殺事件、韓国大統領罷免事件、トランプ米大統領の放言等々、まことに「世に争いの種は尽きまじ」と思わせる事件が、目白押しである。

自然や人為の災害で死傷した人たちには、同情の涙を禁じ得ないものの、あまりの事件の奇想天外さや生々しさに目を見張りながら、げに「事実は小説より奇なり」の感をひとしお抱くこの頃である。

 そして思う。海外ではアメリカにしろ、韓国にしろ、大規模な大統領反対闘争や弾劾裁判が起きているのに、それに劣らず大きな問題を抱えている日本では、人々は何ゆえにかくも平静なのか。政界や経済界の不正や犯罪は、国会や裁判所にまかせておけば事終われりと思っているのか。そんな疑惑や義憤も今は昔、遠く血気盛んな頃の胸のなかである。近ごろは、正岡子規の「病床六尺」ではないが、「六病息災」のわが身を、儘ならぬ陋屋で嘆く毎日といっていい。

当然のことながら、わたしの関心の対象も天下国家から身辺雑記の世界へと、卑俗化してゆくことになる。

ニュースから軽い番組に切り替えると、このところきまって妻に投げかける言葉がある。

「あのキャスターはだれだったかナ? あの女優の名前、なんといった?」

こんな質問がやたらに増加、まるで成長期の子供が母親に答えをせがんでいる図である。訊かれた妻も応答にまごつく。

「いちいち訊かないでヨ。ワタシだって同じだから―」

「同じって変だよ、キミはオレより五歳も若いくせにー」

やりとりしながらも、どちらの記憶の回路が早くつながるか、競争している。

「でも、ワタシ、おかしいなと思うことがあるの。名前を見るとだいたい顔が浮かんでくるけど、顔を見てもなかなか名前が出てこない。なぜかしらネー」

「うーン、そうだネ。文字からは、読み慣れているせいか、すぐイメージが浮かぶが、逆にイメージを文字化するのは難しいというのと、似てないか?」

自分史を書くときの苦労を追想しながら、わたしはそう受けて立つ。

「そういえば、いつも日曜にやっている文字クイズ、漢字の読みはできても、書き取りはなかなか難しいけど、これって今の話となにか関係あるかしら?」

「サーね」と、新聞の広告欄に目を転ずると、『なぜ、名前だけが出てこないのか』という文字がまるでここに疑問解決のキーがあると言わんばかりに、老眼に飛び込んできた。誘惑に弱いわが身、時を移さずアマゾンにメールしてしまう。

「もう本は買わないでよ。処分するのに困るから―」

妻の小言を背中に聞き流しながらも、彼女の機嫌を損ねまいと、今日も布団あげと床掃除に勤しむ姿は、我ながらいじらしい。

これが目下のところ、わたしのルーティーンである。有り難いことに、コードレス掃除機は軽くて便利。床はもちろん、階段も思いのままに動かせる。

「あなた、だいじょうぶ? 身体の調子が悪いからといって、今朝は体操を休んだんじゃない。無理しないで―」

つい最近、階段から転げ落ちたわたしを心配して、階下から妻が呼びかける。

木曜日は、星ヶ丘のジムで体操の日である。今朝も、何となく身体がだるくて休むことにした。起きて遅い朝食を取ると、次第に元気を取り戻す。不思議なことに、ズル休みした日にかぎって、心身ともに活力が漲り、仕事もよくできる。

この感覚、前頭葉が憶えていた。中学時代、心臓弁膜症でよく学校を休んだ。休んだというより、サボった。厳しい教練の授業のある日、勤労動員の作業がある日、そんなときは度々学校を無断欠席した。すると元気になり、かねて読みたかった本など読みふけったものだ。

 余暇をもてあましたときよりも、何か義務を手抜きしたときのほうが、元気になる。なぜだろうか。貴重な時間を犠牲にしたからには、それ以上の充実した時間にしたいという潜在意識のせいなのか。そんな殊勝な意識というより、ズル休みをした罪の意識がその代償を求めるためなのか。

 掃除がひとしきり終わって、居間のテレビをつける。今日もまた、参議院予算委員会では野党議員が森友学園事件を追及している。連日、引きも切らずにこの話ばかりだ。

 人間の織りなすドキュメンタリードラマが嫌いでないわたしでも、さすがにもう勘弁してもらいたいと思う。テレビを切って読みかけの本を開く。やはり読書だ。そのもたらす静謐の時間が性に合っている。

フト気づくと、庭の茂みあたりから、「ホーホケキョ」が聞こえる。あの声を聞くのは何年ぶりだろう。確かあの年は、良いことがあったはずである。それが何かは思い出せないが、あったことだけは間違いない。

ベランダから隣家の庭を覗く。まだ梅は健在のようである。春告鳥の君はあそこにいるに違いないと探していると、また鳴いた。だが、声はすれども姿は見せずだ。それでいい、今年もなにか良いことがあってくれればいい、そう念じながら、さわやかな春風を頬に受けるわたしであった。

                 平成二十八年四月)