巨星墜つ

   ― 和佐田高望さんを偲ぶ ―

                                                     安藤 邦男  

和佐田さんの奥さんから電話をいただいたのは、その日の夕暮れどきであった。

 「昨日、愛知国際病院のホスピスで主人が亡くなりました。ちょうど午後一時三十分でした。枕許に付き添っている私の目の前で、主人は静かに息を引きとりました。最後の言葉は、私に話しかけたのでしょうか、『おかあさん』でした」

 覚悟はしていたものの、悲しみに沈んだ奥さんの声がいつまでも耳に残り、しばらくわたしは電話のそばを離れることができなかった。

平成二十九年二月十五日、和佐田さんは八十九歳の生涯を閉じられた。

告別式は、電話をいただいた日の翌々日、十八日の午後一時から、お宅近くの「イトウホール尾張旭」で行われた。

当日は、若林さん運転の車に石井さん、田口さん、それにわたしたち夫婦が同乗し、参列した。式場には、質素に行いたいといわれた奥さんの言葉にもかかわらず、和佐田さんの徳を慕って集まった会葬者の数は、三~四百人ほどあったと思う。

焼香が終わると、老人医学で有名な元大学教授小澤利男さんの弔辞があり、名古屋幼年学校時代に和佐田さんとともに体験したときの想い出が語られた。

話の内容は、和佐田さんの最新刊『わが十七歳の青春』の記述と重なっていて、聞きながらわたしは、和佐田さんの偉大な資質はやはり幼年学校時代にその淵源があるという確信を強くした。

― 教育に携わった者の一人として、わたしは前々から幼年学校や陸軍士官学校などで行われた教育ほど、理想的なものはなかったと思っていた。だからといって、むろん、戦争を肯定する気持ちは毛頭ないが、しかしそこには戦後教育に不足している精神教育、人格養成教育の原型があったといっていい。命を賭ける戦場では、指揮官たる者、この人のためなら喜んで死ねると部下に思われるだけの資質を備えていなければ、部下はついてこないであろう。

そんな教育によって人格識見を身につけた人たちなればこそ、戦後日本の復興に大きく貢献できたし、かつ立派な業績も残すことができたのではないか。わたしの友人にもそのような人物が何人かいるし、わが自分史の会にも和佐田さんを始めとして石井さん、高木さんがおられる。―

そんなことを考えながら、わたしは小澤さんの弔辞を聞いていた。

和佐田さんのあとを継いで幼稚園長を務める婿養子さんが、喪主として心のこもった挨拶をされた。それが終わると、近親者に混じってわたしたち同人は、生花を寝棺に納める儀式に参加し、出棺を見送った。

帰宅してからも、わたしは和佐田さんの思い出を問わず語りに妻に話すとともに、在りし日の和佐田さんとの交友を思い出していた。

 

和佐田さんと知り合ったのは、平成十五年の十二月、わたしが名東自分史の会に入会したときだから、かれこれ十三年以上も前のことだった。 

 以来、和佐田さんとはなんども行動をともにした。わが家の最寄りの駅、藤が丘を通られることもあって、地下鉄でご一緒したり、最近はタクシーに便乗させてもらったり、拙宅へ立ち寄られたこともあって、いろんなお話を聞いた。

 氏はわたしより二学年上の、同じ旧制小牧中学の先輩であることを知ったし、ご生家は旧制小牧中学の東門の側にあって、当時は文房具店を開いておられたことも知った。わたしはそこで剣道の防具を買ったことなどを話すと、懐かしそうに微笑まれたことを思いだす。

 そして今から四年ほど前のこと、印刷物をワード文書化するソフトがあり、わたしも利用しているというようなことを和佐田さんに話したことがあった。しばらくすると、氏はワードに取り込んでもらいたい文書があるといって、瀬戸幼稚園の機関紙「こうわジャーナル」の創刊以来のバックナンバーやその他の印刷原稿を持参して、わが家を訪問された。それに氏がこれまで『なごやか』に書かれた自分史作品を合わせると、かなりの分量であった。

それらをすべて電子化するのに、一、二か月かかったろうか、項目別に分類・編集し、目次もつけて仮称『和佐田高望全著作集』なるワード文書を創って差しあげた。 

和佐田さんの文章の適格さと重厚さは毎月の自分史作品で知っていたが、「こうわジャーナル」の随想は幼少時の追憶から今日の教育問題や政治状況まで広範にわたり、すべてが深い教養と卓見に充ち満ちていることに、あらためて驚嘆した。そして一刻も早く出版し、多くの人に読んでもらいたいと願ったものだ。

だが氏は、その原稿を印刷・出版する気配がいっこうにない。聞けば、さすが完璧主義者の和佐田さんである。これまで書いた原稿のすべてを見開き二ページにきちんと納まるように、足らざるを補い、余れるを削るという作業に明け暮れているという。

見かねて早く出版してはとせかすと、きまって返ってきた答えがあった。

「私は遅筆でね。せっかく準備してもらって悪いんだが、もう少し待ってくれませんか」

「私はいいですが、歳は待ってくれませんよ」

と言いたいのを我慢し、胸の中におさめたものだ。

 しかしどの世界にも、難航をアシストする助け船がいるものである。わが自分史の会にも、田口さんやじゅんこさんという、編集と製本のベテランがいた。この人たちの援助で、和佐田さんの作品は逝去される直前に、日の目を見ることができたのだ。

 去年の晩秋、自宅療養中の和佐田さんを自分史の有志の者が見舞ったとき、じゅんこさんは手作りの全集『ふくろう随想記』をサプライズとして持参、差しあげた。心血を注いで書き上げた作品が一冊の本としてまとめられ、和佐田さんの手のなかにあった。さぞ感慨無量であったことだろう。

 あのとき、和佐田さんはまだ元気であった。奥さんとともに見事な庭園の散り初める紅葉を眺めながら、一同で談笑したことを思い出す。その後、和佐田さんは次第に体調をくずし、それから間もなくがんセンターに入院された。

年が明けて一月の末、再び自分史の有志でがんセンターにお見舞いにいった。病室に、田口さんやじゅんこさんの尽力で実を結んだ『わが十七歳の青春』(前編)が自宅から届けられていて、わたしたちは一冊ずつ頂いた。ベッドに横たわる和佐田さんに本の出版を祝福し、それぞれがお見舞いの言葉をかけると、和佐田さんは顔に満足の表情を浮かべながら、それに応えられたことを思い出す。

その後、和佐田さんは愛知国際病院のホスピスに転院された。それから数日を経ずして、田口さんとじゅんこさんは『瀬戸幼稚園とともに』と『なごやか随想』を急きょ製本し、ホスピスの病床に伏す和佐田さんのもとに届けたと聞いた。だが「本ができましたよ」といって差し出しても、和佐田さんにはもはやそれを手にする力はなく、言葉にならぬ声を出されただけであったとか。でも、じゅんこさんが後で語るには、その声からは喜びと感謝の気持ちがはっきりと読み取れたという。

和佐田さんが天国に召されたのは、それから一週間もたたない二月十五日であった。

 

今わたしは『ふくろう随想記』のページを繰りながら、和佐田さんの人生を振り返っている。

氏は、戦後、無から出発し、瀬戸地方随一の幼稚園を創立された。のみならず、幼児教育や地域文化の発展にも尽力されたすばらしい先駆者であった。地域の人たちや幼稚園の卒園生にとっては、仰ぎ見る巨星であったろう。そしてわが自分史の同人にとっても、和佐田さんは目指すべき巨星であったし、その衣鉢を継ぐべき先達でもあった。

いまはただ、その思いを胸に抱きながら、謹んでご冥福をお祈りするだけである。

 

                         (平成二十九年三月)