二度あることは三度ある 

                         安藤 邦男

 

「お母さん、ことしは大丈夫でしたか。またお疲れになったんじゃないかと、心配したものですからー」

 今年、正月休みでジャカルタから帰京していた次男は、正月五日に一家を引き連れて帰省し、二泊して帰って行った。その翌日、嫁から冒頭の電話がかかってきた。

「大丈夫よ。あなたたちの顔を見て、元気をもらったからー」

 応答する妻の声は晴れやかであった。

嫁が電話してきたのには訳があった。実は去年のこと、元旦に長男と次男の一家が神明社での初詣を住ませて引き上げたあと、妻は疲れが出たのか、とつぜん発熱し寝込んでしまった。三日たっても熱が下がらず、痛くて身動きもできない有様。ついに救急車を頼んで、愛知医大へ十日間入院、加療するという事件があった。(『なごやか』87号記)

その二の舞を心配しての嫁の電話だったのだ。だが、嫁の不安にはそれだけでなく、もう一つ遠因があったはずである。

数年前の正月、次男一家が帰省したときのことだ。わが家に辿りついたとたんに、次男も嫁も二人の孫も、全員が発熱に嘔吐と下痢を繰り返し、寝付いてしまった。おまけに妻までがダウン。ノロウィルスのせいだった。珍しくわたしだけは疫難を免れたが、お陰で正月行事はメチャクチャだった。(『なごやか』68号記)

そういうわけで、わが家は病魔に襲われた新年をこれまでに二度経験している。

「嫁のYさんは〈二度あることは三度ある〉を心配したかもしれんが、今年はまずまず無事に過ごせたナ」

妻と語らいながら、これで三度目の〈春の珍事〉は免れたと思っていたのだがー。

 ここでいったんその話は中断し、三度目は絶対にあって欲しくないという出来事の系列に、もう一つのバージョンがあったことに触れよう。それは去年、わたしが頭部を二度打っていることだ。

一度目は、ヤマダ電機で買い物をし、カウンターで手続きをしていたときだ。腰掛けていたスツールのクッションが前にずれて、わたしは床に落下、尻餅をついた拍子に、後ろにあったスツールの角で、後頭部をグワーンと打った。

 二度目は、長久手のフラワー・ショップへ鉢植えを買いに行ったときである。自転車の荷台に五、六個の植木鉢を載せ、ショップを出ようとしたとき、鉢の重みにハンドルを取られて横転。転んだ先に門の鉄柱があり、それに右の側頭部をぶつけてしまった。

両方とも、こぶができた程度で、家庭で手当てし、大事には至らなかった。しかし、それからずっと心の中にあったのは、今度転んで頭をぶったなら、ただでは済まないぞ、という恐怖だった。〈三度目の正直〉というではないか。このことわざ、勝負事などで二度目までは当てにならないが、三度目は確実だという意味で使うが、これって事故の場合に当てはめたらどうなるだろう。確実に死ぬということにならないか。

 というわけで、自転車に乗るときはもちろん、とくに地下鉄の階段の乗り降りには,わたしは神経質なほど用心をしてきた。

 それなのに、である。次男たちが帰った数日後に、それは突然われわれを襲った。しかも、〈春の珍事〉と〈頭部打撲〉の二系列の出来事が、三度目の時点で見事にリンクしたのである。

その日は、正月の後片付けのため、寝具などを階下から二階へ運んでいた。作業は、妻が一階の部屋から運んできた物を、わたしが階段の途中に設えた踊り場で受け取って、二階へ運ぶという手順であった。 

妻の差し出す枕かタオルを受け取ろうとして、手を伸ばしたときである。足がふらついて上体が左へ反転、手をついた先がなんと、踊り場の一段下の踏み板だった。もんどりうって、頭から階段を滑り落ちてしまった。そのまま下のフロアまで落下していたら、大怪我になっていたかもしれなかった。そうならなかったのは,階下にいた妻がとっさに両腕を広げてわたしを受け止めてくれたからである。そして二人とも折り重なって床に落下、そのまま動けなくなった。案じていた頭部を、フロアにしたたかに打ちつけたのだ。

混濁した意識のなかで、遠くから妻の声を聴いた気がした。

「お父さーん、大丈夫? 大丈夫?!」

あとで妻の語るには、これは夫の最後かもしれないと思ったという。

しばらくして起き上がった。生きているー、これが最初の実感だった。不思議なことに、身体には何の痛みもない。だが、周囲はこの世のものでない感じ。何が起きたんだ? 階段から落ちた? そんな馬鹿なことが! これは夢か? だが、目に入る風景はいつもの玄関先だ。こんなことって、あるのか? ひょっとするとオレはもう死んでいるんじゃないか?

邯鄲(かんたん)の夢〉の故事ではないが、さまざまな妄想や雑念の類いが、一瞬のうちに思い浮かんで消えた。

身体に痛みを感じはじめたのは、夕方近くになってからだった。動くと、床で打った側頭部に痛みが走った。右肩もいたい。左の手首に内出血の跡が出ている。

妻はさらにひどかった。メガネが吹っ飛んで、レンズが無くなっていたし、わたしの身体がぶつかったとき、胴体が捻れたらしく、背中に手のひら大のアザができ、少し動かしても痛むらしい。

「でも、この程度の怪我でよかったナ」

「そうよ、神様に感謝しなくちゃ―。それに、わたしたち、息子に代わって災難を受けてやったのかもしれないわ」

思えば事故の起きたのは、ちょうど次男の乗った飛行機がジャカルタへ向かって無事に飛び立っていった時間であった。

土曜の午後とて、近医はみな休診である。わたしはそのまま床に入って休んでいたが、妻は予定されていたサークルに、痛む腰をかばいながら出かけていった。

一日おいて月曜日、わたしは歩いて五分ほどの距離にある東名病院の神経外科を訪れ、MRI検査をしてもらった。幸い、頭部には、打撲による異常はなかった。

「前頭葉の萎縮は年なりに進んでいますが、ご心配なく。ただ、血管が一か所細くなっていますが、名市大で治療されているようですから、大丈夫でしょう」

そういって、神経外科医はMRIの造影をとりこんだCDを渡してくれた。

迎えに来た妻と帰途につきながら、わたしは今度の事故のことを考えていた。

〈二度あることは三度ある〉ということわざは、やはりダテにあったのではなかったのだ。だが、待てよ、これ、四度あるとは言っていないぞ。ということは、三度でわたしたちに取り憑いた悪運は尽きたんだ。人は〈運の尽き〉を〈命運の尽き〉と早合点して悲しむが、これを〈悪運の尽き〉と思えば、前途は洋々と開けてくる。それに〈怪我の功名〉ということもあるし、〈禍を転じて福となす〉もあるではないか。

そう思うと、わたしの足取りは自然に軽くなった。

「もうこれで、厄払いはできたのかも知れんなあー」

「だめヨ、まだ安心してはダメ!〈一寸先は闇〉というからー」

そうは言いながらも、妻の声は明るくはずんでいた。

 

  (平成二十九年二月)