妻のささやかな幸せ
安藤 邦男
(1)鉢植え
外壁の塗装の老朽化で、わが家の外装を十数年ぶりに塗り替えたのは、去年の六月末ごろであった。
落ち着いたクリーム色の外壁、真っ白な雨戸、黒い屋根瓦など、見た目は以前よりぐんと明るい雰囲気になった。そのせいか、妻は上機嫌になり、道路に面したフェンスにハンギング・フラワーを飾り出した。
「珍しいことをやりだしたね。キミがそんなことをする姿など、いままで見たこともないんだがー。でも、いつまで続くかな?」
わたしのそんな冷やかし気味の言葉にもめげず、妻は植木鉢に植えた草花を喜々として手入れしている。これまで、築四十数年の陋宅を囲むフェンスに、一度たりと化粧を施したことのない妻である。それが近頃は、朝な夕なに花の守り神よろしく、水やりを欠かさない。
鉢の数はどんどん増え、いまやフェンスだけでなく、狭い庭ながら花で埋め尽くされてしまった。手にあまると、ご近所に持っていったりもしている。
挿し芽とやらで、増える草花もあると聞くと、早速実行する。芽が根付くまでは、細心の注意が必要だといって、苗を傷つけないようにチョロチョロ水をそそぐ。新芽が出るころには、まるで香りをかぐように、それぞれの鉢に顔を近づけながら観察し、三十分以上もその場から離れずにいる。
連日の雨つづきの頃は、さすがに家の中にいるしかないだろうと思い、妻の姿を探すと、なんとやはり傘を差しながら花の前に佇んでいる。花に、すっかり精魂を奪われた風情である。
草花は陽射しに当たり過ぎても、風雨にさらし過ぎてもよくないらしい。とくに冬場には寒さが大敵である。昼間は陽の当たる軒下に出し、夜になると玄関にしまい込んだりして、傍目には大変な世話だと思うが、本人はまったく意に介さない。
どうしてそんなに熱中できるのか。私にはわからない心理だと思っていたが、あるときフト気づいた。もう数ヶ月前から、わたしは腎臓病の医療給食を取っている。彼女はわたしへの食事の支度からすっかり解放されているのだ。彼女の関心は、料理から花づくりに移ったのかもしれない。
「あんなまずい腎臓食でも、もう少しの間、がまんして取るか」
妻の張り切りようを見て、夫はそう思うこの頃である。
妻が近くのキリスト教会に英会話の勉強のため通いだしてから、かれこれ二十年になる。
中学生レベルの英検を受け、合格したのがキッカケだった。それに当時、息子たちが二人ともアメリカ暮らしをしていたことも、英会話学習のモチベーションになったようである。だが、何十年も遠ざかっていた英語は基礎力も失われ、会話はブロークンそのものだったが、持ち前の人見知りしない快活な性格が、彼女を英会話塾に通い続けさせ、今日に至っている。
類は友を呼ぶというが、勉強仲間のツテで、英会話教室はさらに二カ所増え、その他趣味の稽古事など加えれば、今では一ヶ月の半分ぐらいは外出している。
それで語学力は向上しているかというと、年数をかけたわりにはできていない。
「英語は同じテキストを何回も繰り返し、声を出して読み、暗記することだ。キミのようにやりっ放しでは、何年続けても進歩しないよ」
わたしがいうと、すかさず妻はいい返す。
「続いているだけで、いいじゃない? 長続きさせるコツって、あんまり真剣に取り組まないことよ。この歳になっては、出かけるところがあるだけで幸せなの」
そうか、八十歳を超えた妻は、どの教室に行っても最年長だというし、いまさら学力がどうのという歳ではないのかも。外人教師の会話で脳を刺激し、外出することで体力をつければ、認知症防止にも役立つ。それだけで十分なのだろう。
「私がネ、今でも勉強が続けられるのは、あなたが側にいてくださるからよ。仲間のレベルもどんどん上がっているし、英会話の教本もだんだん難しくなってるし、分からないところを教えてもらわないと、とてもついていけないからー」
そして妻は最後につけ加えた。
「そのためにも、どうか長生きしてね。お願い!」
なかなかの殺し文句を心得ている。何事につけ完全でありたいわたしと、妻のようなのんき人間の取り合わせが、まずまずの夫婦長持ちの秘訣かもしれない。