「ワタシ、戌年生まれの犬だから、アナタの行くところにはどこへでもついて行くわ」
昔から妻は冗談めかして、よくそんなことを言ったものだ。忠犬ハチ公を気取っているとも思えないが、そう言われると主人たる者、なんとなく安心感を覚えるから不思議であった。
といっても、わたしは干支による性格診断を信じるものではなかったが、心理学者による性格分類には多少心惹かれた。かつて『頭の体操』で一世を風靡した多湖輝氏は、犬と猫の生態になぞらえて、人間をイヌ型とネコ型に分けた。
イヌ型人間は人情味豊かで、行動的、だれにも親切で、献身的に仕えるタイプである。それだけに他人に利用されることも多いが、あまり気にしない。陽気で、気さくといった印象を与える。
それに対してネコ型人間は、独立心が強く、他人に隷属することを好まず、わがままな性格の持ち主である。感情をあまり外に表わすことはなく、非社交的、孤独を愛するタイプが多いという。
「多湖氏によれば、たしかにナガコはイヌ型人間といえる」
「そうすると、クニオさんはネコ型人間?」
「まあ、そういうことにしておこう」
この分類は、実はユングによる外向型と内向型を俗耳に入りやすく言いかえたにすぎないのであるが、それはさておき、性格分類には、視覚型と聴覚型という分類もある。
「ナガコはイヌ型のうえに、聴覚型人間みたいだな」
妻はキッチンの仕事をするかたわら、テレビから流れる歌を聴くと一度で憶えるし、画面を見なくても俳優の声を聞き分ける。聴覚は、わたしなどよりはるかに発達している。しかし一方、画面を見ているときは、タレントの顔をしょっちゅう間違える。
「そうね、犬は目よりも耳の方がよく利くというから、イヌ型は聴覚型ね。すると、猫は夜行性で目が利くから、クニオさんはやっぱりネコ型よ。そうして視覚型。人の名前も字で覚えるでしょ」
人の話を聞くのがニガ手なわたしは、学生時代、著書のある教授の講義はすっぽかし、その著書を読んで単位を取ったものだった。それを思うと、わたしはネコ型で視覚型に分類できるかもしれない。
そのほか、通俗的な分類法として日本で人気の高い、A型、O型、B型、AB型などの血液型による性格分類があるし、心理学には体型によって気質や性格を肥満型(躁鬱気質)、やせ型(分裂気質)、筋肉質型(粘着気質)に類型化するクレッチマーの学説など、いろいろな理論があるようだが、わたしは心理学とはあまり肌が合わず、もっと常識的にあるいは直感的に人を理解したいと思ってきた。いってみれば、文学的な人間理解が好みである。
そんな文学的人間分類に、衝撃を受けた思い出の本がある。学生時代に教えを受けた工藤好美さんは、往年の名著『文学論』の中で人間を「ゲーテ的人間」と「シェークスピア的人間」に分類した。この二人を工藤さんはそれぞれ「人格」と「技術」を象徴する人物として分類し、説明した。そして資質として内向的な人間は、ゲーテ的人格尊重の教養主義者になり、外向的人間は行動力を生かして物づくりの専門家になるとした。それだけの分類ならば類書も多いが、工藤さんの独創は二つの人間類型を人間全体の生き方の理想像にまで高めたことであった。内向的な教養主義者もただ自己の趣味嗜好に閉じこもるのではなく、広く技術のもつ実践的側面を採り入れなくてはならないと説き、外向的資質の人間も単に技術の鍛錬や物づくりの実践だけでなく、それらのものを通して己の教養と人間性を深めるべきであるという。そうすることで、二つの資質は総合され、新しい人間性が形成されるというのである。この論文の一部は当時の高校教科書に採用され、その難解さが高校生たちを悩ませたようである。
このような弁証法的な考え方が見られる論文に、ニーチェの悲劇論がある。ニーチェは絵画などの造形芸術をギリシャ神話のアポロに、音楽芸術をディオニュソスに象徴させ、悲劇などの劇文学は、アポロ的理性とディオニュソス的情熱をあわせもつ最高の芸術としている。
いずれにしても、これは人間いかに生きるべきかを説く人生の指南書であり、わたしはそこから多くのことを学んだ。同時に、わたしは工藤さんの学問研究の方法からも教えられた。なにか研究する場合、対象をその異同に基づいて二つに分類するか、またはその対象に対立するもう一つの対象を立てるかして、両者を比較・対照することで、はじめてその対象の真の姿が捉えられるというのである。
「ワカル」という言葉は漢字で「分かる」と書くが、「分ける」が語源であることは一目瞭然である。さらに、「ワカル」は意味を使い分けて「解る」と書くこともあれば、「判る」と表記することもある。『漢字源』によれば、「解」は「角+刀+牛」で、刀で牛の身体や角をバラバラに分解することを示すとある。また、「判」は「刀+半」で、刀で二つに分けることを表すとある。いずれにしても、「ワカル」の語源は「分ける」、つまり「分類する」ことであることがワカル。
かくして、わたしは分類のとりこになり、後年、それは拙著『テーマ別英語のことわざ辞典』などとして結実した。
古来、人はさまざまな分類を試みてきたが、それらはすべて人や物の実態を究め、本当の姿を知りたいという熱情の表れであろう。だがそれで、人間や人間の創りだした物が解明されるだろうかという疑問が残る。物はまだしも、「人間、この不可解なもの」の正体は果たして分かるだろうか。答は否だと思う。だからこそと言うべきか、それにもかかわらずと言うべきか、人は分類の情熱に取り憑かれ、さまざまな分類形態を考え出したのではないか。
ただ、分類癖が昂じると、そこには偏見を生みだすという危険のあることも忘れてはならないだろう。
「イヌ型だの、聴覚型だの言うのは、レッテルを貼って人を色眼鏡で見ることにならないですか」
いつもわたしの分類癖の被害を受けてきた妻だけに、彼女の言葉には重みがあった。もって自戒の言葉としたい。
(平成二十六年三月)