終戦記念日の前夜に思う 

                   安藤 邦男

 

暑い夏の日も、街灯がともるころになると、やや涼しくなる。

ここは、藤ヶ丘駅前のスターバックスの屋外におかれた椅子席である。ときどきコーヒーを飲みながら座ることもあるが、今宵はただ買い物をしている妻を待つため、空いている椅子に腰を降ろしている。店の椅子なのだが、道路にはみ出して置いてあるからには、無断で座ってもいいと思いながら―。

わたしはここで、地下鉄から吐き出される人びとの群れを眺めるのが好きだ。待ちわびる母親らしき人のもとへ駆け寄る若い娘、急ぎ足でバス停へ向かう学生たち、交差点のこちら側では、家路へ急ぐサラリーマン風の男が二、三人、青信号を待っている。反対側の歩道では、若者の群れがスナックやカラオケ店に吸い込まれていく。それぞれ思い思いの目的をもって動いている人びとの流れを見ているうちに、わたしの心に「平和っていいな」という感慨がこみあげてきた。

そういえば明日は八月十五日、日本に平和がもたらされた日だ。あの日を境にして、日本は百八十度の転換をしたのである。暮れなずむ空の下で人びとの群れを眺めているうちに、わたしは追憶の世界へ引きこまれていっていった。

 

昭和二十年、わたしは中学四年生であった。その前年からその年にかけて、クラスの何人かが陸士、海兵、予科練などに志願し、去って行った。

色弱と心臓弁膜症の持病のあるわたしには、軍関係の学校の門戸は閉ざされていた。疎外感に苛まれながらも、大東亜戦争の正しさと神国日本の必勝を信じる点では、彼らに勝るとも劣らないと自負していた。

その年、東京や名古屋には空襲が頻発していた。しかし名古屋市を遠く離れたわたしの住む春日井や小牧には、戦禍は及んでいなかった。ただ、B29という爆撃機が編隊を組んで超高空を横切っていくのは何度も目撃した。どこから発射するのか、高射砲の炸裂が白い煙となって敵機の周辺にぽっ、ぽっと浮かんでは消えていた。命中どころか、届きさえしなかった。

そんな光景を見ると、悔しさが胸に渦巻いた。あれは、わざと外して敵機をおびき寄せる作戦なのだ。いまに見ろ、神風が吹いて一網打尽だ。本気でそう信じていた気がする。だが、そんな思いとは程遠く、日本の空は米軍機に為すがまま蹂躙されていた。

勤労動員先の岩倉工場には一度グラマンの来襲があって、防空壕に駆け込んだことがある。だが被害はなく、むしろ平穏な生活がつづいていた。

ただ、唯一恐ろしさを実感したのは、爆風を体に浴びたときだ。その夜、なぜかわたしは庭に出ており、隣接する小牧飛行場の戦闘機格納庫が爆撃を受けたのを見た。空に火柱が立ったと思うと、しばらくして突風に襲われた。驚いて裏庭の防空壕へ駆け込んだことを憶えている。

やがて、新型爆弾と報じられた原爆が広島と長崎に落とされて、日本は降伏した。そして戦後が始まったのである。

わたしにとって終戦は、軍国主義から民主主義へという価値観の一大転換であった。それは長い、苦しい経験の連続だった。人間の意識は一朝一夕に変わるものではない。いってみればそれは、硬直な日本刀を灼熱の窯で加熱し、しなやかなフェンシングの剣に叩き直すような、激烈な鍛練の過程であった。

中学校では、かつて生徒を扇動し戦場へ送り込んだ教師が、手の平をかえして民主主義を説いた。その現実を目の当たりにして、わたしは教師不信から人間不信におちいり、自我の殻に閉じこもった。何年か後に、教師もまた戦争の被害者だという認識を持つにいたり、ようやくわたしは自我の殻から抜けだすことができた。だが、その時からわたしは軍国主義にしろ、民主主義にしろ、主義と名のつくものを信じることができなくなっていた。信じることのできるものは、自分の目で見、肌で感じ、自分自身の頭で考えたことだけだという態度は、その後一貫して続いている。

 「主義」という言葉で思い出すのは、最近読んだ原田伊織の『明治維新という過ち』である。  

日本を敗戦に導いた軍国主義の過ちは、遠く明治維新にその端を発しているとしている。明治維新という歴史的事件は、輝ける近代化の幕開けではなく、日清、日露の戦争から日支事変を経て太平洋戦争で末路を迎えた軍事大国の、滅亡へ至る道程の入口であったという。吉田松陰をはじめとする維新の偉人たちは、平和な江戸幕府の体制と文化を破壊したテロリスト集団だと切り捨てる。わたしは論点のすべてに納得するわけではないが、薩長閥政府の創りだした明治維新という神話を否定することで、これまでの定着してきた官制の歴史観や価値観を見直そうとする著者の態度にはまったく同感であった。

 

 そんなことを想い出していると、買い物を終えた妻が現れたので、わたしはスターバックスの屋外椅子から立ちあがり、帰途についた。

家でテレビをつけると、戦後七十年の安倍談話が発表されていた。「謝罪」「反省」「植民地」「侵略」というキーワードは談話の中に盛り込まれていたが、すべて間接的な引用であって、話が流暢であるだけに上滑りしているという印象は免れなかった。

そればかりではない。今回もまた総理の口から漏れた「積極的平和主義」なる言葉を聞くと、戦後七十年とは違った新しい政府主導の歴史観が創出されようとしている気がする。のみならずそこからは、危険な火薬の臭いすら感じられる。

キャッチフレーズは、もうたくさんだと言いたい。「××主義」とか「××史観」という言葉は、それ自体が実態から乖離するだけでなく、現実認識を誤らせる元凶ではないか。われわれはそれを戦前の苦い経験から学んでいるはずだ。いま求められているのは、頭で考える「平和主義」でなく、体で感じる「平和そのもの」であろう。

首相談話を聞きながら、わたしは先ほど駅前で見た群衆の姿を思い出していた。そしてあの平和の風景だけは、絶対に失ってはならないと強く念じていた。

                       (平成二十七年八月)