ローリングストーンとドライブ旅行に行く
安藤 邦男
(1)長男の新居を訪問し、今城塚古墳を見学する
今まで忙しかったが、やっと部屋の整理もついたので、来て欲しい」
春まだ浅き三月の末、長男がわたしたち夫婦を新居に招待した。
出発の日は、ちょうど春休みが三連休と重なり、通りも駅も行楽客でごった返していた。
午後二時ごろ、高槻駅で下車すると、長男が改札口まで迎えに来ていた。その日は寒さがぶり返し、見上げる空には時ならぬみぞれが舞っていた。駅からマンションまでは高架のアーケードが造られていて、お陰で傘を差す必要もなく、二、三分で彼の部屋に着くことができた。
部屋は十六階建てマンションの十五階にあって、眺望は抜群であった。
「いいところだ。やっと落ち着いたな」
長男の顔には、照れたような笑みが浮かんだ。思えば、長い道のりの末、ようやく手に入れた仕合わせである。気恥ずかしく思うことはない。堂々と誇っていいことだ。
長男は、大学卒業後、入社した高槻のS社を皮切りに、いくつかの化粧品会社を渡り歩いた。その間に、国内の大学に関係したり、アメリカの研究所に勤めたりして、まことに居場所の定まらない生活を続けていた。転居も甚だしく、わが家にいた頃の二回の転居を含めると、十指に余る回数になる。
英語のことわざでは、こんな人間のことを「ア・ローリング・ストーン・ギャザーズ・ノー・モス」(A rolling stone gathers no moss.)という。日本ではこれを訳して「転石苔を生せず」というが、その意味の曲折が面白い。
むかしイギリスでこのことわざができた頃、転石すなわち転がる石とは住居や職業を転々と変える者の喩えであり、苔は地位や財産を象徴していた。したがって転居や転職を繰り返す者には、金もたまらず地位も上がらないという、否定的な意味を持つことわざであった。それが現代になると、とくにアメリカのような流動社会では、苔は古いカビのような有害物質に下落し、転居や転職はむしろ時代を先取りする好ましい生き方として推奨されるようになった。「ローリングストーン」はむしろ誇らしい代名詞となり、今日では雑誌やロックバンドにそんな名称を冠するものまで現れている。
わが家の長男は、まさにローリングストーンを地で行く人生を歩んできた。
「いつになったら、安住の居場所を見つけるのだろうか」
地位も不安定だし、財産もあまり無い長男一家を見て、わたしたち夫婦はその行く末を案じたものだった。しかし、彼は彼なりに努力を続けていたらしく、三年前ようやく山陽地方の或る大学に職を得たし、去年の暮れにはこのような分譲マンションも購入した。
親馬鹿のひいき目かもしれないが、どうやらわが家のローリングストーンも、ことわざのようにマイナスからプラスへの価値転換を果たしたのかも知れない。
さて、高槻の新居には、三連休の初日とて共働きの嫁も入社一年目の長女も在宅していたが、大学一年になる次女は友人と外出していて不在だった。
新居でしばらくくつろいでから、長男の運転する車で近くにある古墳の見学に出かけた。途中で帰ってきた次女を拾い、町外れの小公園に到着。中央に小高い丘があって、これが最近発掘・整備されている今城塚古墳だという。パンフレットによれば、六世紀頃できた最大級の前方後円古墳で、ヤマト政権の大王、継体天皇の墳墓だとするのが学界の定説らしい。丘の上には人や馬の埴輪のレプリカが何十体も列をなして並んでいた。中国で見た始皇帝の兵馬俑の巨観には及びもつかないが、それなりの美観ではあった。
夕食は市内の繁華街にあるレストランで、フルコースのふぐ料理に舌鼓を打つ。
(2)大塚美術館を訪問し、その後鳴門の渦潮を見る
翌日八時、留守番役の次女を残して、息子夫婦に長女、それにわれわれ夫婦の五人は車に乗りこみ、まずは淡路島を目指して出発。
新居に一泊さえすればいいと思っていたが、長男は道後温泉行きのドライブ旅行までお膳立てしていた。孫たちが小さかった頃はよく出かけたものだったが、大きくなってからは久しぶりのドライブ旅行である。
車は明石海峡大橋をわたり、淡路島に入った。島の中央の山々を貫通する高速道路をノンストップで走る。
鳴門海峡大橋を渡ると、四国の徳島である。そこに大塚国際美術館があった。
案内によれば、東京の国立美術館に次いで国内二位、私立では一位の規模を誇る美術館という。この美術館の特徴は、例えば大原美術館などと違って、展示作品がオリジナルではなく、すべてコピーだということだ。とはいうものの、大塚製薬傘下の製陶会社が開発した特殊技術で、原画を寸分違わず陶板に焼き付けたという複製だから、大きさといい、色彩といい、見た目には原画とまったく変わらない。しかも、古代から現代までの一、〇〇〇余点の展示絵画は、すべて時代別やテーマ別に系統立って並べられているので、美術学生などにとっては最高の教育現場でもある。
しかし、折角の美術館も、三時間足らずではほんの入り口だけの鑑賞に終わってしまった。なにしろ地下三階、地上二階の壮大な建物、観覧距離は延べ四キロといい、全部見ようとすれば数日を要する巨大な会場、諦めるより仕方がなかった。
館内のレストランで、遅い昼食をとった。
「せっかくだから、鳴門海峡の渦を見ようよ」と妻が言う。
当初の予定にはなかったが、時間は午後三時過ぎで、折から引き潮と重なってもっとも大きな渦が見られる頃だというので、急遽、鳴門海峡へ引き返すことになった。
渋滞のため、やっとの思いで鳴門公園近くの駐車場にたどり着き、下車する。鳴門大橋の車道の下には、「渦の道」という観潮のために造られた遊歩道があるが、そこを鳴門海峡の真ん中あたりまで歩くとかなり広い展望室があった。それぞれが観光客の群れをかき分け、ガラス越しに遙か下を覗く。遊覧船が何隻か浮かび、その周りにいくつかの渦が見えた。だが、テレビなどで見るのとは違って、遠距離のせいかあまり迫力はない。
「やはり、渦しおは船で見るべきだね」
そんなことを話しながら、一行は鳴門海峡を後にした。
」(3)道後温泉に泊まり、帰途屋島を訪れる
徳島から愛媛に入り、海岸線を走るころ、山の端に沈む太陽が見えた。松山の町ではもう陽がとっぷり暮れ、道後温泉のネオンが輝いていた。
七時半、ホテル「椿館」に到着。入湯と夕食、その後、ホテル内で伊予の伝統芸能という「水軍太鼓」の生演奏を楽しんだ。いくつかの太鼓の居並ぶなかに、直径一メートル半はあると思われる大太鼓が鎮座している。その轟音は聞く者のはらわたに響いて、まるで砲弾の飛びかう戦場もかくあろうかと思わせるほどの激しさであった。
翌二十三日(日)、六時に起床し、再び温泉に浸かる。
バイキング方式の食事の後、チェックアウトまで時間があったので、歩いて五分ほどのところにある「道後温泉本館」を訪れる。
道後温泉へ来たらここの湯だけには入れといわれているほど、道後のシンボル的存在の浴場である。重要文化財として指定されたという建物で、宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』に登場する「油屋」のモデルになったという。観光客が多く、われわれ四人が近辺を見てまわる間、長男が三十分ほど並んでから順番を取ってくれた。
館内にはいると、借りた部屋で浴衣に着替え、入湯する。朝だというのに、すでに多くの客がいる。出ると湯茶の接待を受け、女性従業員に案内されて館内を見物する。夏目漱石が常用したという「坊ちゃんの間」や昭和天皇も来浴されたという皇室専用の部屋や湯殿(ゆどの)を見る。
再び椿館へ帰り、土産など買い求めた後、チェックアウトした。
車は高速を飛ばし、愛媛から香川に入ると、もう午後二時を回っていた。
「うまい讃岐うどんを食べよう」
といって、長男は高松市の郊外にある「うどん本陣山田家」へ車を回す。さすがこのコースは二度ほど経験しているというだけあって、彼は地理に詳しい。
武家屋敷を思わせる格式ある建物には、立派な庭園が付属していた。伝統の本格手打ち讃岐うどんをたべる。長男夫婦にこれまで世話になったお礼を言う。
「いろいろお世話になってありがとう。これからも仲良くやってくれ。さいわい、便利なところにいい分譲も買ったし、娘たちも楽しくやっているようだからー」
そう言って、心ばかりの謝礼を嫁に手渡す。
ドライブ旅行の最後は屋島だった。車はドライブウエーを一気に頂上まで登った。屋島神社に参詣し、頂上から瀬戸内海を望む。
源平の戦いで、源氏が勝利を祝って山頂から陣笠を投げたという故事に倣って、カワラケという皿状の小型土器を投げる遊びを楽しんだ。五十年前、修学旅行に来たとき生徒たちと同じことをしたことを思いだした。山を下りる途中で、車を止め、平家滅亡の戦場跡、壇の浦を見下ろしてから下山する。
神戸に入ると、車は渋滞し、進めない。昨日と同じように、日没の太陽を見る。大阪に入った頃はすっかり夜になっていた。大阪駅で息子たちと別れ、新幹線に乗る。
車内販売のコーヒーを口にすると、ようやく二泊三日の旅が終わったことが実感できた。旅の思い出に耽りながら、わたしたち夫婦はどちらともなく、嫁のいった言葉を話題に上せていた。
「お父さんたちも、名古屋からこちらへ引っ越してきてはどうですか」
それが不可能だと知っていても、そんな言葉をいってくれた嫁の心根を思い、わたしたちは何となく心の温まるのを感じていた。
(平成二十六年五月)