大山鳴動して鼠三匹?
安藤 邦男
朝陽が雨戸の隙間から差し、部屋が少し明るくなったようだ。おや?
いつも隣に寝ている妻がいない。自分を置いてどこへいったのか。どうしよう。わたしは妻の姿を求めて、まだ覚めやらぬ夢の中をさまよっていた。
「そうか、もう君はいないのか」
寂しさのあまり、何気なくつぶやいたその言葉の重大さにわれながら驚き、ようやくわたしの意識は覚醒した。でも、それが城山三郎の遺稿集の題名だったことに気づくには、しばらく時間が必要だった。だが、妻に先立たれた高名の著者と違って、わたしの妻はまだ昨日会ったばかりだ。束の間の寂しさは、我慢するしかあるまい。
雨戸を開け、朝食の支度をした。テレビをつけると、また今日もスマップの解散話を報じている。人それぞれ関心は違うものだと思いながら、独りだけの朝食を済ませる。
これまでも、「不便でしょう」という同情は、多くの知人からもらった。しかし、「自分史の会」の友人Sさんではないが、家の中の電化製品は住み込みのヘルパーさんよろしく大抵のことはやってくれる。他人に同情されるほどのことはない。それに、親族をはじめ多くの知人が見舞いに来てくれたことも、心の支えになっていた。
しかし一日が終わると、侘しさが待っているのはどうしようもない。とくに夜、独り寝のときがそうだ。今夜も、睡眠薬のお世話にならねばならないだろう。
妻が救急車で愛知医大病院に担ぎこまれたのは、松の内の五日だった。その朝、わたしは生まれて初めて一一九番に電話した。妻は担架で救急車に搬入され、同乗したわたしは車内で救急隊員に、それまでの経過を逐一報告した。
― 元旦に初参りを済ませ、帰省中の次男一家が去りますと、疲れが出たのか、妻が突然寝込んでしまいました。風邪かと思っていたのですが、夕方から夜にかけて、熱が上昇するにつれ、体中の関節が痛いと言い出したのです。
二日になっても熱は下がらず、三日の朝、ついに近くの休日診療クリニックへタクシーで駆けつけました。心配していましたが、インフルエンザではないと言われ、抗生剤と解熱剤をもらって飲んだのはいいですが、その夜から翌日朝にかけて、熱は下がるどころか、四〇度近くになり、体中の関節が痛むらしく、妻は一晩中悶え苦しみました。妻の背中や足腰をさすりながら、私も明け方までつき合いましたが、いっこう状態は好転しません。
夜半、気づいてみますと、妻は四つん這いになってトイレへはいり、その場で便座につかまるのですが、立ち上がれない。うずくまったままわたしを呼んでいました。駆けつけ、起き上がらせ、何とか便座に腰掛けさせる始末でした。
朝になると、病状はますますひどくなり、まったく起き上がれなくなりました。そんなわけで、皆さんのお世話になることにしたのです。―
こうして運び込まれた救急医療センターで、妻は全身のCT検査や血液検査を受けた。急を聞いて再度駆けつけた次男とわたしは、担架に乗せられた妻に付き添って十一階の個室にはいった。
十五階建ての高層ビルは新築したばかりで、病室はすべてが新しく、清潔であった。窓から眺めると、東部一帯が見事なパノラマをなし、木曽山脈につながる猿投山も手を伸ばせば届きそうな距離にあった。
妻は病室に運び入れられるや、直ちに輸液と抗生剤の点滴を受けた。
次男は翌日帰っていき、その二、三日後、ジャカルタへ飛び発っていった。
完全看護だから付き添いは不要であるものの、わたしは毎日午後になると、着替えやタオルなどを持って妻を見舞った。
入院直後の二、三日は、ジンマシンが身体中にできて苦しんだが、それも別の抗生剤に変えてからは沈静化したようである。
数日後、血液やCTの検査結果が伝えられた。主治医のN女性医師の話では、初診の段階では、自己免疫疾患という難病ではないかと疑ったという。自己免疫疾患とは、異物を排除する免疫システムが自分自身の正常な組織に過剰反応し、攻撃を加えるので、高熱を発し、骨や皮膚に異常が生じるというのである。
だが、更なる検査の結果では、その疑いはないということになった。だとすれば、ここに運び込まれたときの、あの身動きもできない骨の痛みや高熱は、一体何だったのか。現代医学は進歩したというが、まだすべてが解明されたわけでないことをあらためて知った。
入院中には多くの人が見舞いに訪れた。長男や次男の家族のほかに、妻の旧友や知人、それにこの病院に勤めるH医師も、わざわざ顔を見せた。彼は次男の中学時代の友人で、わたしの教え子でもあった。
難病でなかったと聞いて、ひとまず安心したが、喜ぶのはまだ早かった。腎臓に新たに腫瘍が見つかったというのだ。
N医師は、ちょうど見舞いに来ていた長男とわたしの前で、持参した小型テレビに画像を映しながら、腎臓の外側にできた二センチ大の腫瘍を見せてくれた。
「良性でしょうか」と、妻が尋ねると、
「それは精密検査をしなければ判りません。あなたの病状がよくなってから、来週ぐらいにMRIで検査してみましょう」と、N医師は事もなげにいう。
一難去ってまた一難であった。とはいえ、妻の容態は毎日点滴されていた輸液と抗生剤のお陰でずいぶんよくなった。独りで立ち上がることもできたし、トイレにも行けた。身体の痛みもほとんどなくなっていた。
一月十四日、無事退院することにした。五日に入院してから十日目であった。
やっと、妻のいる生活がもどってきた。だが、病院での寝たきり生活は、妻の活動力を奪っていた。歩くのもままならなかった。半病人を一人抱えた分、わたしの家事労力は倍増したが、妻の感謝の言葉を聞くと、わたしはいそいそと食事や洗濯に励んだものだった。
十八日、レストラン「木曽路」では、わが「自分史の会」恒例の新年会が行われていたが、わたしは早めに引き上げ、妻を連れてMRIの検査に臨んだ。診断の結果告知は、三日後と決まった。
二十日、入院中に予約しておいた口腔外科に通院し、以前から口の上顎にできていた小さな突起状の肉腫の検査をしてもらった。診断結果は、骨の突起によって生じた肉芽であって心配はいらない。ただし、肉芽は成長することもあり得るので、経過観察が必要という。
翌二十一日、待ちわびたMRI診断の結果を知らされる日である。総合診察室に入ると、世話になったN医師ともう一人の年輩の男性医師の二人がいた。
「腎臓の腫瘍はよくある嚢胞の一種で、心配ありません。それから新しく肝臓に腫瘍が見つかったのですが、これも血管腫といって、悪性のものではありません」
N医師がそう言うと、続いて男性医師がつづけた。
「ただ、これらは大きくなる怖れもありますので、一年後にまた検査をしてください」
妻もわたしも、ほっと胸をなで下ろした。帰途、藤が丘駅前のレストラン「嘉文」で、久しぶりの昼食を楽しんだ。
「腎臓腫瘍を指摘されたとき、キミは癌で死ぬと思ったんじゃないか」
「そう、だからアナタに財産管理のこと、お願いしたんですよ。でも、ちっとも聞いてもらえなかった」
「あんな、面倒な話、解るはずないよ。だが、よかった。救急車出動で大騒ぎしたが、これだけで収まったんだからー。大山鳴動してネズミ一匹の図だな」
「ネズミは三匹いるんじゃない?」
「そうか。肉芽と、嚢胞と、血管腫か。こいつらがいつ暴れ出すか、当分用心するにこしたこたーないか」
話す妻の顔には、久しぶりに笑顔がもどっていた。だが、言葉にはまだ力がなかった。昔の元気を取りもどすのはいつになるだろうか、それまでは、日ごろの世話のお返しを続けなければなるまいと心に誓うわたしであった。
(平成二十八年二月)